「……ふぅ」
 リュートは額に滲んだ汗を腕でぐいと拭ってため息を吐いた。自分が昨日まで私室として使っていた部屋を見回す。
(……なんだ、思ったよりずっと広いや)
 散らかっていたわけではないが、部屋に置かれていた物がなくなったせいで余計に広く見えた。
「ここも今日でお別れなんだね……」
 呟くと、なんだか今更のように寂しくなった。
 生まれ育った島。幼い頃、アークと一緒に駆け回った丘。探検した森や洞窟。
 万能な幼馴染を持つ故の劣等感。雑用を押し付けられるたび、上司や同僚から八つ当たりされるたび、なんで僕だけと本気で泣きたくなった日もある。けれどアークは、リュートが自分以外の雑用を押し付けられることを良しとしなかった。不当な言いがかりをつけられれば、まるで自分のことのように怒って反発した。それがなんだか嬉しくてくすぐったくて、そんなことで怒るくらいなら自分のことくらい自分でやってよと、毒づいたこともある。羨みや妬みや嫉みは常に付きまとった。それでも、アークが普段鼻持ちならない上司をあっさりと見事に下すたび、彼を幼馴染に持ったのことを誇らく思っていたのも事実だ。
 それらすべてを置いて、ここから旅立つ。
 両親を飲み込んだ海は、大陸へ行っても近くにあるだろうけれど。
(父さんと母さんたちが生きてたら、僕を叱るだろうか)
 考えても仕方のないことを、思う。リュートが両親と過ごした日々は既におぼろげだ。二人の顔もぼんやりとしか思い出せない。なんて薄情な息子だろう。
 それでも。
(僕は、行くよ)
 大陸へ渡ることが、シリウスの部下になることが、アロランディアに対する裏切りだとは思わない。だって今でも、この島を、この島に住む人たちを愛しいと思う気持ちは変わっていないから。
 リュートは荷物を背負い、ドアに手をかける。そろそろ約束の時間だ。
(さよなら)
 別れを告げる。彼の人への、甘く切ない、憧れにも似た恋心すらここに置いていく。
(終わりを連れてきてくれたひとが、葵さんでよかった)
 心からそう思った。
 扉を閉めて歩き出す。心なしか、歩調が速くなってしまうのは仕方がない。ともすれば振り返ってしまいそうになる自分を叱咤した。
 まっすぐ前を見据える。恥じることなど何もない。
 すべては自分で選んだこと。ここを出て行くことすら、己で決断した。たとえそれに誰の思惑が絡んでいようと関係ないのだ。……少なくとも、今の自分にとっては。
 誰一人見送りのいない船出。シリウスは、薄情な人達だねぇと笑っていたけれど。
(……葵さん)
 まだこんなにも想っている。未練がましいと自分でも解っているけれど、胸の奥で密かに想うだけなら自由だ。
 彼女が自分を忘れてしまっても、自分は彼女を覚えておこうと思う。この先何があっても。誰を好きになっても。
 つらい時、くじけてしまいそうになるたびに、彼女を思い出そう。
 遠くを見据える瞳。強い眼差し。凛とした立ち姿。まっすぐな心。言葉。――光。
 流されていくだけだった自分たちの間に、終わりをつれてきたひと。
(もしも大陸から戻ってきた僕が、今よりもっと強い男になれたら、葵さんは)
 振り返って、微笑んでくれるだろうか。また、三人で笑いあえる日はくるだろうか。
 それを――そんな夢が叶うのなら、自分が大陸へ渡ることもきっと無駄ではなくなるのだ。

 

 遠くで潮騒が聞こえる。
 風が、背中を押してくれるような気がした。

 

 

ゼロは終わりにして始まり