「…………」
前鬼はうっすらと目を開けた。根強く残っている眠気のせいで瞼が重い。傍らの主は未だ夢の中らしく、静かな寝息を立てていて起きる気配はなかった。
なんとなく自分だけ損をしたような気分で、前鬼は忌々しげに舌打ちをする。……もっとも、小明の悲鳴とともにベッドから蹴落とされて目覚めるよりは、ずっと快適なそれと言えるのだけれど。
(……間抜け面)
寝惚けた頭でそう思って、再び目を閉じる。わざわざ手を伸ばす必要もないくらい近くにある体温に、知らず、ほうと息を吐いた。
そういえば、誰かと同じ寝具で寝ることを厭わなくなったのは、一体いつからだっただろうか?
おはようの声もなく
厭な夢を見た。まだ岩に封印されていた頃の夢だ。
飽きるほどに何もなく、目を開けていても閉じていても大差ない暗闇。意識はあったりなかったりした。窮屈で、ただ退屈なだけのあの空間。外の様子を窺い知ることもできなかった。意識がある時に、声や音らしいものが雑音として聞こえるのがせいぜいで。
思い出すだけで腹立たしく、はらわたが煮えくり返りそうになる。もう二度と、誰があんな場所に戻ってなどやるものかと思った。
今更あんな夢を見たのは、そんな思いが強いからだろうか。何にしても忌々しいと前鬼は舌打ちをした。すると、小明がむずがるようにううんと唸る。起こしたかと身構えたが、そうではなかったらしい。すぐに安らかな寝息が鼓膜を震わせて、前鬼はふっと力を抜いた。ビビらせんなとまた舌打ちしたくなったが、一応念のためやめておく。
前鬼にかけられた封印は小明によって解かれたのだが、彼は彼女に対して感謝などしなかった。主として敬う気すらさらさらない。抱いているのは別の感情だ。
時間さえも停滞し、浮き沈みする意識の中で、その声がはっきり聞こえたのは偶然か必然か。
呼ばれている、と感じた。
――――……なんだ?
自分を呼ぶ声は、込められる想いもチカラもまだ小さくて弱く、縋るには些か頼りなさすぎる。それこそ、掴んでも手を引いた瞬間に途切れて霧散しまいそうな蜘蛛の糸のよう。
――――もっと強く呼べ。そして、オレ様をさっさとここから出しやがれ!!
ようやく訪れた好機。逃すわけにはいかなかった。この瞬間を、どれだけ待ち焦がれていたことか。意識と一緒に封印されていた衝動が覚醒を始め、体中を高揚感が支配する。
目覚めた後のことなど考えていなかった。ここから出たいという、その想いしかない。第一、彼には恐れるものがなかった。自分にとって邪魔だと判断したものは、片っ端から消していけばいい。自分には、それだけの力がある。
ただそれだけを信じて、与えられた『よすが』に手を伸ばしたのだった。
悲願叶って復活を果たした今でも、前鬼は、意識が浮上するのを感じると思わずどきりとしてしまう時がある。
――――目を開けようとしても、見えるのはただの闇ではないのか。
馬鹿馬鹿しい考えだということは、とうに解っている。けれどそれは、別に意識しているわけではなく、ある瞬間にふっと湧き出てふっと消えていくものだから、どう対処のしようもない。
(全部てめえのせいだ。馬鹿女)
半ば八つ当たりのようにそう思って小明を睨むが、対する彼女はそれに気付くこともなく、身じろぐ気配さえない。未だ夢の中で遊んでいるらしかった。あまりの警戒心のなさに、前鬼は大いに呆れる。
僅かであっても殺気すら混じった敵意の視線すら気付かないとは、どんな術師だ。無防備にもほどがある。これだから人間は。
(だから、オレ様が傍で面倒を見てやらなきゃならねえんだ)
あまりに危なっかしい彼女だから、おちおち目も離せない。
いつの間にか生まれていた、ある種の使命感のような感情を、前鬼はそう称す。
(折角蘇ったってのに、やることが馬鹿女のお守りかよ)
前鬼は軽く嘆息した。けれど、やる事のない平和惚けした現世で、彼の望む騒動が舞い込んでくる可能性が高い場所は、他でもない、小明の傍なのだ。
まったく、史上最強の鬼神と謳われる前鬼様ともあろう者が、よりによって女の尻を追いかけるようになるとは。まさかこれもクソジジイが仕組んだことじゃねえだろーなと、あながちあり得なくもなさそうな仮説が頭に浮かび、さらに鬱々とした気分に襲われた。
(冗談じゃねえや、くそッ)
前鬼は寝具に身を沈める。こんな時は寝てしまうのが一番だ。どうせ、小明もまだ起きてくることはないだろう。今度こそ、容赦なくこちらを蹴り出す足をよけてやる。
何度目かの決意を胸に、前鬼は意識を手放した。
彼が主に蹴り落とされるまで、あと四分。