――――これからは彼女と共に生きたいと思います。
         小角様、ボクはもうあなたに付き従うことはできません。

 

 

 

 後鬼がそう言い出したのは、ヴァサラを封印した後のことだった。

 

 

 

 

 

ある未来のための必然

 

 

 

「前鬼、いい加減機嫌を直してください。ボクと離れるのが寂しいからって、そんなに怒ることないじゃないですか」
 夕食の下拵えをしつつ後鬼が言った。前鬼は憤怒と屈辱、不快さを混ぜたような複雑に顰められた顔で怒鳴る。
「気色悪いことぬかしてんじゃねえようつけがっ! 誰がそんなことを言った!!」
 前鬼の怒りに呼応してか、風がざわざわと木々を揺する。常人ならば鼓膜を破りかねないその怒声を、後鬼は首を竦めることでやり過ごした。
「ちょっとした冗談ですよ。ボクだって、貴方にそんな殊勝で繊細な感情があるなんて思ってません」
 何か言い返してやろうと前鬼は口を開くが、急に馬鹿馬鹿しくなってその場にごろりと寝転んだ。意識せずとも愚痴が漏れる。
「どいつもこいつも、オレ様にクソジジイの世話なんぞ押し付けやがって。おまけになんでオレ様がジジイの子孫の面倒まで見なきゃならねえんだ。冗談じゃねえ、人間に付き合うのはあのジジイで終いだぜ」
 小角から言い渡された直後から何度も聞かされたそれに、後鬼はまたそれかと息を吐いた。
「仕方ないでしょう、小角様の判断です。……ヴァサラがあんなことにならなければ、その役目は彼が負う筈だったんでしょうが」
「……その名を出すんじゃねえ」
 どろどろした不快感を押し殺したような唸り声と共に殺気を向けられ、口を噤む。暫く互いに無言を通していたが、夕食の具材を鍋に流し込んで手持ち無沙汰になった後鬼は口を開いた。
「まあ、そう悲観することでもないと思いますよ。小角様が未来の救世主としてあなたを選んだんです。誇ってもいいことだと思いますけど」
「何を誇れってんだ。ジジイだけじゃなく、その子孫の面倒まで押し付けられただけじゃねえか。何が未来の救世主だ、馬鹿馬鹿しい。オレ様がいつそんなもんになりたいと言った!」
「誰かから必要だと求められ、居場所を与えられることは幸せだと言ってるんです」
「オレ様はそんなもん望んだ覚えはねえ!!」
 後鬼はため息を吐く。人間との共存を望む後鬼と、粗暴で周囲を顧みない奔放な前鬼とでは決定的に考え方が違う。けれど鬼神という種族の枠から鑑みれば、異質なのはむしろ後鬼の方だ。非力ではないものの力にも体格的にも恵まれていると言えず、鬼らしかぬ心根のせいで爪弾きにあうしかなかった彼にとって、受け入れてくれた小角やこれから伴侶となる彼女の存在は何より嬉しいものだった。彼らのためにならこの首を捧げても悔いはないだろう。
 この喜びを、その素晴らしさを、どうにかして前鬼にも伝えたいと思うのだがなかなか上手くいかない。ボクもまだまだ修行が足りませんねと一人ごちた。
「前鬼だって、その時になったらきっと解ってくれると思いますけど」
「そのとき?」
「いつか、あなたを本当に好きだと言ってくれる誰かが現われるとき、です」
「来ねえよ、そんなときなんか」
「いいえ、来ます。絶対に」
「……何故そう言い切れる」
 やけに自信満々に言い切る後鬼に、前鬼は怪訝そうに尋ねた。
「そのときが来たら解ります」
 後鬼としても、別に何か確固たる確信があるわけではない。言うなればただの願望だ。時代を超えるほど生きていれば多少は精神年齢も成長するだろうし、考え方も変わるだろう。それに長く生きていれば、物好きの一人や二人にもいつか出逢えるかもしれない。それらが前鬼にとって、良き変化を生み出してくれることを祈る。
「言ってろ。どうせ人間はすぐ気が変わる。てめえに惚れたとかいう女だって、あっという間に掌返すぜ」
 ぴくりと後鬼の片眉が器用に跳ね上がった。
「彼女への侮辱は許しませんよ前鬼。今晩のあなたの分の夕食はないものと思ってください」
「はあっ!? おいっ、ちょっと待ててめえっ!!」
 焦って上擦った声ががなりたてても、後鬼は意に介さない。呪術で強制でもされない限り前鬼が誰かに頭を下げるような性格でないことは熟知していたが、それでも今の言葉は聞き捨てならなかった。死んで詫びろとまでは言わないが、せめて土下座の一つでもしてもらわないと気がすまない。
 ヒトの心が移ろい易いことくらい後鬼とて承知している。それでも、異端だったこの身を望んでくれたときの彼女の気持ちは、きっと本物だったと信じたいから。
(前鬼は知らないから、そんなことが言えるんだ)
 心なんていう、移ろい易くて不確かなものに縋りたくなるほどの気持ちを彼は知らない。知らないがゆえにそれを一笑に付する前鬼を、後鬼は恨めしく思った。
「おい、聞いてんのかよ後鬼ッ!!」
 未だうるさく喚き散らす声にため息を吐く。本当に、彼の食に対する執念というか執着には恐れ入る。いっそのこと、小角に断食させる咒でもかけてもらおうかとさえ思った。それなら狂おしいほど自分以外の何かを求める気持ちを理解出来るのではないだろうか。
「そんなに怒鳴らなくても聞いてますよ、うるさい。そんなに夕食が欲しかったら、さっきのあなたの言を撤回してくださいね」
「なッ……!」
 前鬼はぐうと唸る。けれど恐らくは数刻後、腹を空かせた赤鬼が不貞寝してるだろう場面は容易に想像出来、後鬼は再びため息を漏らす。数百年以上生きている鬼が、まるで年端も行かぬ子供のようではないか。
(何て言うかこう、もう少しだけでも大人になってくれないかなあ)
 小角から離れ、愛する彼女と人の里で暮らすことには何の躊躇いもない。けれど自分がいなくなった後のことを考えると、次から次に沸いて出る心配事に頭を痛める後鬼であった。