(もしもあたしが死んだらね)
 散歩に行ってくると断りを入れるような気軽さで、女は笑った。聞いていた男の方が渋面になる。
(馬鹿なこと抜かしてんじゃねえよ、うつけが。縁起でもねえ)
(もーっ! だから、「もしも」って言ってるじゃない)
 話の腰を折られて女の頬が膨らんだ。もう少女と言われる年齢ではないくせに、時折のこんな仕草は彼女をひどく幼く見せる。
 男は渋面のまま、忌々しげに舌打ちをした。仮定の話であろうとなんであろうと、不吉な言霊は避けるべきではないのか。何の前置きもなく急にそんなことを言われたら、穏和で知られるかつての相棒だって同じことを言ったに違いない。
 このままでは先に進めないと判断したのか、女は気を取り直したように喋り出す。
(もしもあたしが死んだら)
(…………)
 男は不機嫌であるというポーズを崩さない。どうやってこの不毛な話を終わらせてやろうと思考を廻らせるが、結局、いい案は思いつけなかった。以前は適当なことを言って怒らせれば話題を逸らすことも簡単だったのに、今となってはその手も通用しない。彼女が持つ生来の強情さ、頑固さは、流れた時間の中でさらに磨きをかけたようだった。
(役家の守護霊になろうと思うの)
 女の濃菫色の髪が風に舞う。抜けるような青が重なる空に、眩暈がした。
(守護霊だと?)
(うん)
 彼女の笑顔が好きだった。面と向かってそう言ったことはなく、言ってやれば喜ぶだろうことは解っていたけれど、それでもずっと黙っていた。
 言ってやるのは己の役目ではないと知っていた。
(ずーっと、この子たちを守っていくのよ)
 女はいとおしげに目を細めて、膝の上で眠る子供の髪を梳いてやる。その時に何も言えなかったことを、男は後々になってから悔やんだ。何でもよかったのに。皮肉でも嘲りでも。今更気後れしたり遠慮を覚えたりする相手ではなかったではないか。
(そしたらずっと一緒にいられるよね)
 主語が欠落したその言葉は誰に向けたものなのか、未だに解らない。

 

 

 彼女の笑顔が好きだった。
 惜しみなく与えられるそれを、誰よりも近くでずっと見ていけるのだと。

 

 

 

 何の根拠もなく、ただ信じていた時があった。

 

 

 

 

 

遠い昔の幸福のように
(銀色夏生)

 

 

 

 ガクリと膝を突いた。思うように動かない体に苛立って舌を打つ。上手く出来たとは思えなかったが、聞かせる者のいないこの場所では別段気にならなかった。
 鼓膜を震わせるのは自分の呼吸のみ。短くて浅いそれは獣の最期の瞬間を思わせた。先程までその呼気をかき消すほどうるさかった心音も、今は聞こえない。それが決して朗報でないことは経験上知っていた。
 首が胴から離れない限り、鬼神が死ぬことはない筈だったが、体内組織の破壊に再生力が追いついていない。蘇生されるものより死滅していくものの方が圧倒的に多いのだ。加速していくその動きは、最早彼の再生力に負える領域を超えていた。よしんばここで生き残れたとしても、いつものように完全復活まで至らないだろう。そして、長くはあるまい。
 目を開けていたつもりだったのに周囲は薄暗い。瞬きしてようやく視界を取り戻すものの、すぐに眩んで世界は薄闇に戻っていった。身じろぎさえ億劫で、どこの部位がどうなっているかすら確かめられない。
(……これで、終いか)
 なんとなく、ぼんやりとそう思う。
 生き死にについて深く考えたことはなかった。生を強く望んだ覚えはないが前鬼にとって死ぬことは負けることと同義語であったので、勝ち続けるための手段、もしくは証として今日まで生き長らえてきた。自分を不死だと思ったことはないが、死ぬ日を夢想したこともない。そのせいか、『その時』を迎える今になっても不思議と心は凪いでいた。こんなもんだろ、と思う。何もせず消されるより、戦って死ねるなら本望だ。
 泥と血にまみれた今の姿は、戦いのみを至上とする鬼神にとってこれ以上ないくらいに相応しいものだろう。
 達観でも諦観でも、ましてや敗北などでは決してない。消すべきものは消し、倒すべきものは倒した。これで暫くは、人間も世界も生き長らえる。後のことなど知ったことか。元々、それらの行く末になど興味はなかったのだし。それでも今まで付き合ってやってきたのは、薄っぺらな正義感や使命感などでは決してない。もっとくだらなくて馬鹿馬鹿しい理由だ。

 

 

 ――――さすがあたしの前鬼ね。

 

 そう言って、あいつが笑ったから。
 勝つたびに、すごいすごいと手を叩いて馬鹿みたいに喜んではしゃぐ。最初の頃は呆れていた。何がそんなに嬉しいのかが解らなくて。どんな敵が立ちはだかろうと勝つことは当たり前で、史上最強の鬼神たるこの身が負けることなど、ある筈がないのに。
 さすがあたしの前鬼ね。
 まるで自分のことのように誇らしげに言う彼女に、いつオレ様がてめえのものになったんだと吐き捨てて、そのままケンカになったこともある。けれど黙らせようとは思わなかった。不思議と気分が良かった。
 さすがあたしの前鬼ね。
 その言葉は理解できなかったけれど、少なくとも嫌いではなかったから。
 だからこそ、尚更勝ち続けなければならなかった。相打ちで済む筈もなく、負けるなんて論外だ。勝たなければ意味がない。尤も、勝たなくても生きて帰ってやりさえすれば、彼女は手放しで喜んでくれたのだけれど。
 さすがあたしの前鬼ね。
 そんなふうに言って笑うその表情が、声が、ただ誇らしかった。
 いつからそんなふうに変わっていったのかは判らない。
(こ、の、………………くそッ)
 荒く短く息を吐いた。ぽたぽたと、止まらぬ血が辺りを緋色に染める。世界はますます暗く遠く儚くなった。忙しなかった息はいつの間にか、耳を澄ませても捕らえられないほど微かになっている。真っ赤に染まった腕を見た。
 今まで何をどれくらい殺してきたかなど、覚えてもいないし気にもならない。恥じてもいない。そんなことで痛む胸は最初から持ち合わせていなかった。
 けれど。
(ち、あき)
 平気な顔で人間を手にかけていた頃の自分を、彼女に知られたくはない。
(まあ耐えた方だよな、オレ様も)
 欲しいものならどんなことがあっても力ずくで手に入れようとするこの自分が、それを目の前に吊り下げられていながら、よく辛抱出来たものだと思う。もういいだろう、とも。
(もういいだろ、手ェ伸ばしても)
 充分すぎるくらいに待った。犬でさえ、「待て」が出来れば褒美をもらえる。ならば自分がそれをねだってもおかしいことなどない筈だ。
 鬼が人間と同じ所へ行けるとは思えなかったが、そんなことは大した障害ではない。地獄だろうと何処だろうと、自分は必ず這い上がって彼女のところへ行く。邪魔するものは、たとえ神であろうとも容赦はしない。
 そこであの憎たらしい彼奴と、彼女の争奪戦でも始めてやろうか。
(またうるせえんだろーな)
 手が早いくせに、争いごとを好まない女だったから。
(散々待ってやってたのに、全然来ねえてめえが悪い)
 役の守護霊になるとあれほど豪語していたのに。忘れたのかなれなかったのか、それともまだ修行中か。ならばいくら生きていたとて、彼女の生まれ変わりになど逢えるわけがない。仕方がないから会いに行ってやろう。盆にも彼岸にも来なかったその理由を、問い詰めてやる。
 背後でカサリと音がした。風の音か野生の獣か、或いはまた別の何かか。生きている人間でないことは確かだと思う。ならば死んだ人間はどうだろう。迎えにくるとは聞かなかったが、そうであればいい。
 いつの間にか閉じていた瞼を抉じ開ければ、空だけは信じられないほど高く明るく澄んでいる。目を細める。雲一つない、いい天気だ。悪くない。強い太陽の光が、あの忌々しい輪具の輝きを思い起こさせた。
 代々受け継がれる小角の輪具は、世代とともに随分様変わりした。初期の面影はどこにもない。変わらないのは色と、太極図が中に嵌め込まれていることくらいなものだ。いくら物覚えがよく博識な後鬼とて、覚えているかどうか。
 覚えていなくていい、と思う。むしろ忘れていてほしい。
 そうしたら、あの輪具が陽光の下でどれほど明るく輝くか知っているのはもう、自分だけになる。一つの曇りもない光がいくつもの色に乱反射し、目が離せないくらい美しく、時に艶やかなまでの煌めきを帯び、しなやかで無邪気で、胸が締め付けられるほど愛しかったことを知っているのは、自分一人だけでいいから。
 もう持ち上げる事さえ出来なくなった瞼の裏に、青空が染みこむ。
 前鬼は残された力でゆっくりと息を吸った。

 

 

 

 これから行くところで。

 

 

(────小明)

 

 

 

 

 

 お前は待って、いるのだろうか。