前鬼は大きくゆっくりと息を吐いて目を開けた。さすがに今すぐ動ける気はしない。
硬い地面に寝転がって、陽の差さない空を見上げた。特に感銘は受けない。寝転がっているのは動けないからだし、空を見ているのはたまたま視線の先にあったから。陽は差さなくても充分なくらい夜目は利く。そもそも、彼がいた場所は、世界は、元々こういうものだった。
現在地は何処だか判らなかったが、「何処か」であることは確かだから他はどうでもいい。奴は死んで、自分は生きている。それが事実だ。それだけで充分だ。気に食わないことといえば、姿が童子のものになってしまっていることぐらいか。まあ、あれだけ力を使えばこうなることは当然だったのだけれど。
本来なら息があるだけでも奇跡だったのに、オマケに五体満足で、こうしている間にも浅い傷からちゃくちゃくと治り始めている。あとは疲労と体力の回復を待つのみだ。そしてそんなものは少し眠ればすぐ終わる。彼の「少し」がどの程度なのかは、この際置いておくとして。
当の前鬼は、そんな奇跡を通り越した事態に感謝するでも畏怖するでもなく、「当然だ」と軽く笑うだけだった。すべては「史上最強の鬼神」という、確固たる自信からくる自負によるものである。
目を閉じた。――――――が。
「！？」
瞼裏に浮かんできたモノによって、一度閉じた筈の瞼は再びコンマ一秒の速さで開かれた。しかし反射的に飛び起きてしまったため、折角塞がっていた一番深い傷口が開いてしまい、前鬼は患部を押さえ涙目で呻く。
（……ちっくしょー……）
ギリギリと歯軋りをした。
（あんのクソ女、どこまでオレ様の邪魔しやがる……！！）
浮かんだ顔は、つい最近まで煩わしいほど傍にあった女の（断じて主などではない）顔。
なんであいつが出てくるのだとも思う反面、別の部分が、今頃どうしているのかと頭を過ぎらせた。
（は、別にどうでもいいじゃねえか）
その考えを即座に打ち消し、ゴロリと寝返りを打つ。チッと舌打ちをして目を閉じるが、今度は小明の顔こそ浮かんでこなかったものの、既に眠気は吹き飛んでしまったらしく全然眠くなれない。
前鬼は、どういうことだと眉を顰めた。眠らなくとも回復できないことはないが、眠らなければ、回復するのに必要な時間が余分にかかってしまう。
（面倒なことになりやがった…………あ？）
そこまで思って、違和感に気付いた。
何を焦っているだろう。別に急がなくとも、時間は腐るほどにあるのに。
（やっと、あいつらとの縁も切れる）
小角にかけられた呪縛からはまだ完全に解放されていないが、とりあえず子孫の小明たちからは放れられた。輪具で呼ばれなければ、会うこともないだろう。
（せいせいするぜ）
もう、あのキンキンに高い声で怒鳴られることも、いいように殴られたり蹴られたり、理不尽な命令を強要されることもないのだ。何もかもを自分の望み通りにできる自由。この時を、どれほど待ち望んだことか。
（ざまー見ろ小角！）
気分が高揚して急いている。久々――本当に久し振りの『自由』という感覚に、今の前鬼は浮かれているといっていい状態だった。
（早く回復しねえかな）
ほんの少し、ここに後鬼がいれば便利なのにとも思ったが、生真面目な彼のこと、完治しきったら「マスター」のところへ引きずってでも連行されてしまうに違いない。それは御免こうむりたかった。
（回復光かけさせるまでもねえぜ、こんなもん）
事実、さっき開いてしまった傷口さえ、今はもう表面上は塞がっている。
『あ、怪我してるね。治さなきゃ』
そう言って、躊躇なくこちらの腕を取って を遣った主の声が、ふと思い出された。足手まといなのは確かだったが、使い方次第でそれなりに役にも立った女。
（……何考えてんだ、オレ様は）
どうして今、彼女の言葉などがよぎるのか。前鬼は、自分で自分に顔を顰めた。
（別にあんな女、泣こうが喚こうがオレ様に関係なんか……）
ない、と言い（思い）切ろうとしたタイミングを図ったように、ふっと脳裡に小明の泣き顔が浮かんだ。望んだわけではないのに、誰よりも近くで、何度も飽きるほどに見せられた表情。
（――うんざりするんだ）
自分が怪我をしたわけでもないのに、血を見ただけで慌てる。瀕死の状況に陥りそうになると、心配そうに不安そうに顔を歪ませて。体の部品が吹き飛ばされるごとに零れる涙。何度も呼ばれる名前。うざったい。うるさい。そんな表情は、声は、見たくも聞きたくもないのに。
（やめろやめろやめろオレ様は、）
前鬼は今度こそぎゅっと目を閉じる。小明の顔は浮かんでこなかったが、今度は彼女の泣き声が、鼓膜をガンガン揺さぶっている気がした。
土が入るのも構わず、地面に爪を立てる。そうでもしないと狂ってしまいそうだった。上手く呼吸ができなくて苦しい。後鬼に睨まれている時より、小角に呪縛されている時より酷かった。なんなんだこれは。
（………………………………）
体がそわそわして落ち着かない。さっきまでの高揚感とは違う、脅迫めいたものを感じた。
（………………泣いて、やがんのか？）
いつだったか、ルドラの力加減を間違ったせいで体を粉々にしてしまった時でさえ、戻ってこいだの何だのと、ぎゃあぎゃあ喚きながら泣いていた。
（ありゃァ、うるさかったな）
その代わり、完全復活を果たした時には、手放しではしゃぎまわって喜んでいたけれど。
（うるせえんだろーなあ、また）
寝つきはいい方だと自覚しているが、あんなに騒がれては、たとえ耳元でなくともおちおち寝てもいられない。
（…………待てよ）
小明が泣くのは、先の通り、こちらが不利になる（そんな状態に陥ったことなど認めないが）か、死にかけるかのどちらかぐらいだ。……ということは。
（あいつら、まさかオレ様が死んだとでも思ってんじゃねえだろーなあ……？）
前鬼はカッと目を開いた。
冗談ではない。
この史上最強たる鬼神前鬼様が、たとえ真実を知らなかったからであろうとも、敵との戦いで死んだなどと思われては不名誉極まりない。屈辱もいいところだ。
（ふっざけんな！！）
飛び起きる。体を苛んでいた傷も疲労も、ゴロゴロ寝転がっていた間にかすっかり回復していたらしい。体はすこぶる快調だ。今はとにかく動きたい。走りたい。暴れまわってやりたい。
自由になりたいという欲求に、とりあえず今は蓋をしておくことにした。今は何より、彼女たちの思い込みという名の侮辱を撤回させなければ。
固まっていた関節をほぐし、勢いよく地面を蹴った。
まず、目指すは役咒法堂。小明たちのところへ。
彼女たちの前に、何食わぬ顔で現れてやろう。大したことなかったと言ってやろう。しょぼくれてる顔を笑ってやるのだ。そしてあいつらは、もっとこちらへ敬意を表せばいい。
（へっ、泣いて喜べ）
そういえばと思い出す。
式鬼の勝利の帰還を手放しで喜んでくれたのは、いつだって彼女だったのだ。
そうと意識せずとも、翔る足は加速する。最初に感じていた高揚感とも、さっき感じた脅迫めいた何かとも違う、もっと熱くて弾けそうな何かを感じる。何処へ向かって走っているのかは判らなかったが、とりあえず走っていれば、いつかあの女たちのところへ辿り着くだろう。
目を閉じても浮かんでくる女の顔は泣いていない。口元には、知らずに笑みが浮かんだ。（待ってろよ）
今、そこへ行くから。
自由さえ踏み越えて