「何が不満なんだ、父さまは?」
みどりは心底理解出来ないというように眉を顰めた。その傍らで、燕は人数分の紅茶を入れながら苦笑している。
二人の実父たる男はため息をついた。
「実の娘と、何処の馬の骨とも知れない輩との同居を許す親がいるわけがないだろう」
「どうして? 姉さまの人を視る『目』は確かなのに」
……これだ。当主は頭を抱える。この末娘が三歳年上の姉に激しく傾倒していることは知っていたが、まさかここまでとは。この話し合いにしても二言目には「姉さま」が飛び出し、これ以上に納得出来る理由が何処にあると言わんばかりに訝しげな顔で首を傾げている。両親の仕事が忙しかったために面倒は上の子供たちに任せていたが、それが間違っていたのか。
この場合、マドカに何かを見る目はないと、その言葉尻を取るような真似をするのは愚行だと知っていた。視力がない分、彼女は人一倍いろいろなことに聡い。たとえばそれは人情の機微であったり、綿密ではないものの大体の天気の移り変わりや相手の体調の変化だったりする。けれどそれも完璧に把握出来るわけではないのだ。今回の執事の裏切りの件がいい例である。まあこれは、執事に就任させた自分の目が悪かったとも言えるのだが。
「まあ、父さんが心配するのも無理はないよ。あの執事……何て名前だっけ?――の、こともあったし」
今までやりとりを静観していた燕が口を挟んだ。フォローをしてくれたようなそれに、咄嗟に父は警戒する。長女に甘いのは、何も次女だけではない。
「それは姉さまのせいじゃないよ!」
それに気付いているのか否か、すかさずみどりが反論した。燕は紅茶を軽く口に含んで頷く。
「そうだ。でも万が一ということはある。俺も父さんも、今すぐにでも彼に会ってみたいとは思うけどね」
けれど彼らには仕事があるというのだ。家庭より仕事を取っているわけではなく、むしろその逆であるからこその選択に、みどりは特に不平不満を唱えたことはない。ストラディバリウス盗難事件に加え、執事の裏切り。マドカが大変な思いをしていたときに不可抗力とはいえ傍にいてやれなかったことを、彼らがどれほど悔やんでいるかを知っていた。崩していた体調が回復次第音羽邸に戻る予定が、仕事の関係で急遽海を渡るはめになった父の焦躁も。
「私がいる」
キッと実父を見据えてみどりが言った。亡き妻を思わせるその凛とした様に、男は一瞬たじろぐ。
「私が、父さまと兄さまが戻ってくるまで冬木殿の監視役になる。私ならもう学校行く必要ないから四六時中見張ってられるし!」
「しかしだな……」
「冬木殿、私が姉さまを頼むって言ったとき、任せろって即答したんだ。私はそれを信じてみたい。姉さまには、姉さまが好きになったひとと幸せになってほしいんだ」
渋る父に言い募る。
自分たちに有益なパイプを求め、当人たちの気持ちに構わず親が子供の婚姻を勝手に決めてしまうことは、昔より幾分少なくなったとはいえなくなったわけではない。たおやかに見えて芯のしっかりしたマドカであるから、周囲の思惑に流されるまま意に副わぬ結婚をすることはない(何より自分たちが許さない)だろうが、それでも、どうせなら愛し愛された人と一緒になってほしいと思うのは親心だ。
とはいえ、恋愛結婚だからといって幸せになれるという保証はなく、政略結婚だからといって愛が生まれないと決まったわけでもない。けれど今、彼女に望む人がいるのなら叶えてあげたいと思う。たとえばそれが、世間知らずゆえの幼い恋だったとしても、穏やかならぬ前途が待ち伏せているとしても。
「どうします、父さん」
こうなることを予想していたとしか思えない長男の言葉に、父はしてやられたと額を押さえた。我が息子ながら食えない男に育ったものである。
「……仮に二人の交際を認めるとしても、邸に一緒に住まわせてやる理由はないだろう?」
しぶとく食い下がるも、みどりは無問題とばかりに返してしまう。
「冬木殿は住む家がなくて困ってる。一人暮らしならまだしも、彼には多くのペットがいるんだ。マンションやアパートは原則ペット禁制だし、財力はなさそうだったから、一軒家を買うにしても簡単なことじゃないと思う。それができたとしても、ライオンや鹿を住まわせられるような大きな庭のある物件なんてそうそうないよ」
それに。
「小さい時、父さまも言ってたじゃないか。困ってる人は助けなさいって。冬木殿は助かるし、姉さまも喜ぶ。一石二鳥でしょう?」
とどめとばかりに、みどりはにっこり笑って見せた。
「…………」
この中で一番権限のある筈の当主は暫し言葉を捜していたようだったが、やがて諦めたように深くため息を吐く。
「………………わかった」
不承不承といった感を隠さず、父はとうとう頷いた。本当は嫌だけど、許したくないけれど、でも反論する言葉が見付からないので仕方なくと、そう思っていることがありありと見て取れる。
「やった!」
「ただし」
そんな父に構わず諸手を上げたみどりに、しかし硬く重い声がかけられた。
「その男の居候は認めよう。食費も賄ってやる。だが正式に二人の交際を認めたわけではない」
「そんな! でもさっき、二人の交際は認めるって」
今度はみどりが不満気な顔をする番だった。
「『仮に』と言っただろう」
「そんなのずるい! 揚げ足取りだ!」
「何でもいい。男の監視はお前に任せる。だが、最終的な判断をするのは私だ。――文句はないな」
それは問いかけでなく宣告に等しい。確認ですらなく、こちらの了承を取り付ける意図はないもの。さっきは息子と娘のタッグに言い負かされたとはいえ、ここは父親。ここぞという一線では譲らない。文句がないわけがないと、みどりは押し黙る。
無言で抗議する末っ子に、燕は優しく諭すように促した。
「みどり。父さんは譲歩したんだ、お前も譲らなければ」
「…………わかった。とりあえず、冬木殿の居候が認められただけでも良しとする」
みどりは渋々頷く。そういえば、ここに来るまではただ報告するだけのつもりだったのに、いつの間にか彼を擁護するような結果になってしまった。なんとなく悔しい。
(まあ、やっぱり最後は冬木殿自身が認められないと駄目だけど)
いつか、大好きな姉を連れて行ってしまう男。
自分たちは何処にいようと誰といようと家族で、それは一生変わらないと解かってはいるのだが、それでも「取られた」という感は否めない。自分でも、未練がましいと思うけれど。
「それじゃあ、用は済んだから明日の朝一で戻るよ。冬樹殿の監視役をするなら早い方がいい」
「……定期的な報告も忘れるな」
冷めた紅茶を飲み干して、長居は無用とばかりに立ち上がるみどりに、父はやれやれと再びため息を吐いた。久し振りに会う父や兄と暫く過ごすという選択は、彼女の頭にはないらしい。
「はーい。大丈夫だよ、私だけじゃなくて他の使用人のみんなにも協力してもらうから」
兄さま、紅茶ごちそうさま。
そういい残して軽やかに駆けていく。恐らくは、明日の航空チケットを手配しに行ったのだろう。
「ありがとうございます、父さん」
穏やかに微笑む長男に、父は恨めしげな視線を送る。息子が父に対して敬語を遣うようになったのは、一体いつのことだったか。
「仕向けたくせに、よく言う。明日から覚悟しておけ」
「あはは、お手柔らかに頼みます」
音羽の当主は組んだ手の上に顔を伏せる。
手塩にかけて育てた愛娘を、何処の馬の骨とも知れない輩に掻っ攫われると思うとそこはかとなく悔しい。恋し合うだけならまだしも、一緒に住まわせるなど実に不本意極まりないことだ。無理に結婚を強いることはすまい、もしもさせるのなら然るべき筋の然るべき男をと考えていたのに、少し目を離していた隙にこれである。もしや菅原の策のうちなのかと勘繰りたくもなってくるというものだ。
『この子が好きになる男の子は、どんな子かしら』
まるで今日という日を予言していたかのような言葉。今はもう記憶にしか存在し得ない妻の声だ。
まだ早いと渋面になる夫に、彼女はあらあらと笑ったのだ。
『女の子の成長は早いものよ、あなた』
子離れのスゝメ