物心ついたときから暗闇だけを見詰めていたマドカにとって、手を伸ばすことはその存在を確かめるための数少ない術の一つだった。
「…………マドカ?」
 少し緊張したような、戸惑ったような声が聞こえて、マドカは我に返った。薄くて少し柔らかくて少し硬い感触。呼吸をする僅かな振動。照れているのか、徐々に上昇していく体温が掌に伝わってくる。どれだけ戸惑っても恥ずかしがっても決して手を振り払ったりしない士度の優しさに、少し笑った。
 このひとが好きだ。すごく。
「小さかった頃、」
 口を開くまでどれくらいかかったのだろう。それまでずっと黙して動かなかった彼は、本当によく堪えてくれたとマドカは思う。
「兄が教えてくれたんです。頬に触れると、その人のいろんなことが解るよって」
 士度は黙ったまま、じっと耳を傾けてくれているようだった。
「本当は、怖いときもあるんです。避けられたり、振り払われたりしたらどうしようとか、嫌がられたらどうしようとか」
 この人にこんなことを言ってどうしようというのだろう。こんなの、遠回しに避けるなと言っているのと同じだ。いずれは遠くへ行ってしまうだろう彼への呪縛に他ならない。――――私は、ずるい。けれどそれでも嫌なのだ。伸ばした手が空を切ったあの瞬間を、私は一番恐れている。
「……で、」
 黙っていたせいか、少し掠れた声と共に頬というか顎が動いて、マドカはいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。それでもその視界に映るものは何もなく、けれど鼓膜を震わせる声が、掌の伝える感触が士度の存在を教える。それだけのことがマドカをどれほど安堵させるかなんて、きっと彼は知らないのだろう。
「何か解ったか?」
 俺のこと。そう言った士度の声音は、ただ優しく温かかった。きっと浮かべている笑顔は優しくあるに違いない。マドカは数年ぶりに、見えない自分の目を恨んだ。けれどこんなふうに彼に触ることが出来るのは、この目のおかげであることも確かだから。真正面から見詰め合って触れ合うだなんて、きっと恥ずかしすぎて出来ないだろう。……お互いに。
「……ふふ」
「な、なんだよ」
 思わず零れた笑みに動揺する士度の声が可笑しくて、マドカは緩んだ頬を引き締められなくなってしまった。
 解っている。心優しい彼が、伸ばす手を避けないでくれること。それがどんなに唐突でも、驚かせるものであっても、彼は一度だって避けたりはしなかった。
「今の士度さんはきっと顔が赤いわ。……照れてるでしょう?」
「なっ!」
 指摘されてさらに照れているのが判った。男の人なのに、ずっと年上で大人なのに、どうしてこんなに可愛らしく感じるのだろう。そうは思っても口には出さない。きっと彼はさらに拗ねてしまうだろうから。
「士度さん」
「……なんだよ」
 声を低くして不機嫌そうに繕ってもマドカは騙されない。だってほら、こんなにもこのひとの頬は熱い。緩んでしまいそうな口許を必死に引き締めている。押し隠そうとしている照れと動揺は声音に滲み出て、棘を含んでいる筈の口調は優しい。
「もう少し、このままでいてもいいですか?」
 どうかこの掌を通して、私の気持ちもあなたに伝わりますように。

 

 

静かな会話