まあそんなわけで、新たに冬木殿の監視及び報告役という任を受け、私――みどりは帰国した。
 冬木殿が音羽邸に身を置く上で、父さまから出された条件は七つ。
『一つ。音羽邸にある貴金属等の使用を禁ず。
 一つ。音羽家長女の身辺には充分に注意を払い、自らの身辺にも気を配ること。
 一つ。長女、次女のみならず、女性使用人とは極力二人きりになるべからず。
 一つ。20時を過ぎてからの互いの部屋へ往来することを禁ず。
 一つ。音羽当主から正式な交際許可があるまで、長女への不必要な接触を禁ず。
 一つ。次女及び使用人は二人の行動を厳正かつ公正に注意し、評価した上での綿密な報告を怠らないこと。』
 つまり、冬木殿はこの音羽邸にいる限り、私たちの監視を受け入れなければならないのだ。
 伝えたときその場にいた姉さまは顔を曇らせたが、冬木殿は苦笑しながらもすんなりと受け入れてくれた。まあ、拒否したら即行追い出されるのだから、元々拒否権はあってないようなものだけど。
 私は焼きたてのクッキーを齧りながら報告書に向う。ちなみに文面はすがすがしいほどの白紙だ。だって書くことがないのだから仕方ない。あの条件のせいか否か、姉さまと冬木殿の仲は驚くほど清らかだ。抱擁接吻等のスキンシップはおろか、手すらも繋いでいないとはどういうことだろう。いくら父さまだって、手を繋ぐことくらいは許してくれると思うけどなあ。いや駄目なのか? 一応報告ついでに訊いておこうか。
「みどり、これからモーツァルトと士度さんとお散歩に行くけれど、あなたも来る?」
「行く!」
 姉さまの誘いに、クッキーの最後の一枚を口に放り込んで立ち上がった。姉さまと出かけられるのは、たとえ近所の散歩コースであっても嬉しい。あーあ、これが冬木殿の監視目的じゃなかったらもっといいのに。
 ドアの向こうには既に冬樹殿が待機していた。
「ん、お前も来るのか」
「うん、お邪魔するよ冬木殿」
「バカ言ってんじゃねー」
 照れる冬木殿にぺしっと気安く頭をはたかれて、なんだか新鮮な気持ちになる。頭を撫でられたり髪を梳かれたりした経験はあるけど、こんなふうにはたかれたのは冬木殿が初めてだ。叱られる時でさえ、手を上げられたことなんて殆どないくらいだから。
「お待たせしました。行きましょう」
「おう」
「はい、姉さま」
 姉さまと一緒に歩き出す。姉さまと冬木殿の半歩後ろが、現在の私の定位置だ。だからって放って置かれることはなく、絶妙なタイミングで話しかけられたりするものだから、ある意味で油断できない。冬木殿は意外に細やかな気遣いの出来る男だと、脳内のメモに書き込んでおく。
 暫く歩いてから、私はあれっと思った。
「あれ、いつものコースとは違うね?」
「気付いた?」
 クスクスと、姉さまは悪戯っぽく楽しそうに笑う。
 親しくない人間にはあまり知られていないことだが、姉さまは意外と悪戯好きだ。他愛ない、けれど思いも寄らないことで人をアッと驚かせては、大成功とばかりにクスクス笑う。その悪戯はどれも他愛なく可愛いもので、しかも成功した時の姉さまの笑顔も可愛かったりするものだから、私たちもわざと誘いに乗っている節があるのだけど。
「何処に行くの?」
「内緒。着いてからのお楽しみよ」
 唇に軽く人差し指を当ててまた笑う。冬木殿に目をやっても苦笑いを返されるだけで教えてもらえない。私は肩を竦めてそれ以上の追求を諦めた。まあそこに着けば解ることだし。
 さらに暫く歩くと人通りの閑散とした道に出た。新宿にこんな場所があったとは。まだまだ散策の余地がありそうだ。
「ここよ」
 示された指の先には、こぢんまりとした喫茶店が佇んでいる。オシャレなカフェではないが、落ち着いた外観には好感を覚えた。コーヒー専門店だろうか。私はどちらかというと紅茶党だけど、コーヒーの香は好きだ。
「……HONKY TONK?」
 店名を読み上げて姉さまを見るとにこりと微笑まれた。場所は間違っていないらしい。……私に開けろってことだろうか。
 ドアを開けると、その裏側についていたらしいベルがカランコロンと音を立てた。良くも悪くも外観を裏切らない店内には、マスターとウェイトレスが一人ずつに、カウンターの客が三名いるのみ。あんまり儲かってはいなさそうだ。
「いらっしゃー……あれっ」
 姉さまと同い年か、やや年下に視えるウェイトレスの少女が声をかけてくる。接客文句は不自然に途切れ、くりくり丸い大きな目は驚きに見開かれていた。
「こんにちは」
 私の後ろから姉さまが微笑んで挨拶する。ウェイトレスはどこかホッとしたような笑みを浮かべた。
「あ、マドカちゃん! びくりしたあ、マドカちゃんが小さくなっちゃったかと思った」
 どうやら彼女は、私と姉さまを見間違えたらしい。まあ無理もないが。
「私の妹のみどりです」
「……音羽みどりです。よろしく」
 一応名乗って頭を下げる。ウェイトレスの気安さからして、姉さまも冬木殿も彼らと顔馴染みらしかった。知り合いになっておいて損はないだろう。
「あ、私、夏実です。水城夏実。ここの住み込みウェイトレスやってます」
 ウェイトレスこと夏実殿が右手を差し出してきたので応える。人懐っこい笑顔が可愛らしい人だ。どうぞとカウンターに通されて座る。
「わ、私、コーヒーは飲めないんだけど」
 たまに茶の席に出たときは口に含んでみたりもするが、あの苦味はどうしても慣れないのだ。
「大丈夫だよっ、カフェオレもあるから! あ、それでね、この人がマスターの王 波児さんっ」
「よろしく」
 サングラスをかけて頭にバンダナを巻いたその男は、思ったより気さくらしい。慣れた手つきでカフェオレを淹れてくれる。
「マドカちゃん妹さんいたんだねー」
 好奇心に輝いている目で見詰めてくるのは、金髪の男だ。私より年上のことは確かみたいだけど、まだ少年と言っても通用しそうな外見である。
「俺、天野銀次! んでこっちが蛮ちゃんね! 俺たち二人でゲットバッカーズ――奪還屋やってるんだ! マドカちゃんのストラディバリウス奪還の依頼をされたのも俺たちなんだよ!」
 やや興奮気味に話されて少しばかり引く。髪の毛の色といい、その人懐っこさといい、ゴールデンレトリバーを連想する。
 奪還屋……。ああ、あの「イイトコまでいったのに結局は失敗した」人たちか。何にせよ失敗したのだから一文もやることなかったのに、姉さまってば。
「『バン・チャン』? マスターと同じ中国人か?」
 天野殿の小脇に首根っこを抱えられている男を見る。サングラスをかけているせいか、それとも煙草を銜えているせいか、天野殿より年上の印象を受けた。もしやマスターの親戚か何かか?
「違え! おいテメー銀次! 真面目に紹介しやがれ!!」
「うえーん、ごめんなさい蛮ちゃん〜」
 がなるバン・チャン(仮名)としおしお縮こまって謝る天野殿に、二人の力関係を見た。しかしこの男、何処かで見たような。
「……もしやあなたは、スイスのホテル裏で行き倒れてたことはないか?」
 はァ?
 訝しげな視線が私に集中するのを感じたが、仕方ない。他に言い方が解らなかったんだ。バン・チャン(仮名)はまじまじと私の顔を見た後、ああと思い出したように手を打った。
「おお! お前、あんときのガキんちょか!」
「命の恩人に向かって何だその言い方はっ!?」
 思わず突っ込んでしまう。せめて「子供」くらいにしてほしかった。
「いやあ、あんときァ助かったぜマジで」
 しみじみと呟いても誠意はカケラも感じられない。
「……よく言うよ、今の今まで忘れてたくせに」
「忘れるわけねえだろ、ただ思い出せなかっただけだ」
「同じじゃないか!」
「みどり、蛮さんを知ってるの?」
 姉さまに訊かれて我に返る。
「あれ、言ってなかったっけ。何年か前、姉さまたちがスイスで講演会をやったとき、宿泊してたホテルの裏で行き倒れてた少年Aだ」
「やだ、そんなことあったの〜?」
 そう言って笑うのは金髪の女性だ。天野殿とは質の違う金の長髪は美しく、整ったプロポーション、唇に引かれたルージュが艶やかに光る。妖艶な美女という形容がつきそうなのに、ケラケラ笑う姿は可愛らしく映った。顔立ちといい、目の色といい、日本人ではないらしい。
 私の視線に気付いたのか、その女性は涙を拭ってにこりと笑った。
「麗しの仲介屋ヘヴンちゃんよ。銀ちゃんや士度クンたちのお仕事の紹介もしてるわ」
「よろしく」
「ねえねえ、それで? 倒れてた蛮クンを、みどりちゃんが介抱してあげたの?」
 ちゃ、ちゃん付け……。懐かしいような、気恥ずかしいような。
「介抱というか、空腹で動けなかっただけみたいだから、何か適当な食べ物をあげただけだ」
「あら、充分じゃない」
「余計なお世話だったみたいだ。最初はすごく睨まれて、怒られたし」
 軽く肩を竦めて言えば、バン・チャン(仮名)へ一気に視線が移動する。
「ええっ、蛮ちゃんどーして!?」
「遠慮……じゃないわよねえ。そんな殊勝な考えするとは思えないし」
「うっせーな! あんときは気が立ってたんだよっ!!」
 天野殿とヘヴン殿に詰め寄られ、バン・チャン(仮名)は声を荒げた。それを見て思う。あのときの私は警戒されていたのだと。
 あの日、何故あそこへ行ったのかはよく覚えていない。恐らくは姉さまの演奏までの時間潰しだったのだろうと思う。とにかく私はただ一人で歩いていて、ふっと目を向けたそこに誰かが倒れていたのだ。その人はまだ少年と言ってもいいくらいの年頃で、目が弱いのか少し大きめのサングラスをかけていた。服や露出した肌は泥だらけでボロボロだったけれど、私は構わず駆け寄って彼を揺り起こした。誰か大人を呼ばず自分の手を差し出したのは、彼の髪型が兄さまに似ていたせいでもあるかもしれない。
『大丈夫か? 具合が悪いのか? 誰か人を……』
『――触るな』
 手を撥ね退けられたのは、それが初めてだった。思わぬ反応に、手の痛みも感じずきょとんと目を瞬かせていた私の顔は、さぞ間抜けだったことだろう。
『近寄んじゃねえ、とっとと失せろ』
 思わず身が竦んでしまうほどの敵意だった。もしかしたら殺気であったかもしれない。通常なら、私は恐れをなして立ち去っただろう。けれど相手は見るも無残にボロボロで、上半身を起こすことも億劫そうだった。
 満身創痍でありながらこちらの親切心を無碍にした彼に、そのときは何故か無性に腹が立ったのだ。
『人が親切で言ってるのに、何だその反応は』
『失せろっつってんだよ。ここはテメーみてぇなお嬢様が来る場所じゃねえ。家に帰ってママにでも甘えてろ』
『うるさいっ!!』
 私は怒鳴った。最後の一言に、私だけでなく亡き母のことまで侮辱された気がした。怒りは、一瞬でも恐怖さえ凌駕した。立ち上がって彼を見下ろしたのは、少しでも自分の優位を意識したかったせいだろう。
『いくら睨んだって、お前みたいなボロボロなやつなんか怖くないぞ! 困った人がいたら手を伸べろと言ったのは母さまだ。ここで引き返したら私が怒られる!』
 詭弁以外の何物でもなかった。言われたことは嘘ではなかったけれど、私を射殺さんばかりに睨んでくる彼の目は怖かったし、母さまは既にこの世にいなかったのだから。
『失せろ』
『もういい。私が嫌なら、誰か他の人を』
 壊れたおもちゃのように同じことばかりを繰り返す彼との問答に飽きて、私は彼を誰かに任せようと考えたのだ。今から考えれば無責任甚だしい。踵を返しかけた足を彼が掴んだ。その体のどこにそんな力が残っていたのかと思うほど、強い力だった。
『!?』
『呼ぶな、誰も』
『だ、だったら、大人しく私に介抱させろ』
『…………』
 彼は黙り込んだが、足首を掴んでいた手も離れた。私はもう一度しゃがんで、何が欲しいと尋ねた。
『……腹減った。死ぬ』
『食べ物だな、解った。すぐ持ってくるから。救急箱も一緒に』
『食いもんがありゃそれでいい。怪我は大したことねえんだ』
『じゃあ、せめてタオルを。顔を拭くだけでも気が晴れるぞ』
 急いでホテルの厨房に向かい、適当な理由をつけて残飯をもらった。あれは結構恥ずかしかったなあ。それはさておき、逃げられたらどうしようといろんな意味で不安がっていた私は、同じ場所で壁に身を横たえていた彼に安堵した。
『ごめん、残飯しかなかったんだ』
『そーゆーことは黙ってるもんだぜ』
 彼は呆れたように言うと、私の手から食べ物をひったくってガツガツと頬張り始めた。驚異的な速さでなくなっていく残飯を珍しげに見ていると、見せもんじゃねーよと毒づかれる。味が濃いだの硬いだのと文句を言いながら、結局彼は私が持ってきた残飯をすべて平らげてしまった。
『ごっそさん。世話になったな』
『どーいたしまして』
 水に濡らしたタオルで粗方汚れた肌を拭き終えた彼は、思ったより整った顔立ちをしていた。空腹が満たされて人心地がついたのか、ようやく笑みらしきものを見せる。けれどすぐに険しい顔に戻ってしまう。
『俺のことは誰にも言うな。ここであったことは忘れろ』
『どうして?』
『どうしてもだ』
『……解った』
 なんとなく必死さを感じて頷く。彼はホッと息を吐いたように見えた。
『じゃーな、お節介。おふくろさんによろしく』
 思えば、最期の最後までムカつくやつだった。けれど私が声を荒げる前に、彼はもう姿を消していた――――
 妙に現実味のない出来事だったから(最初からして疑わしかったし)、姉さまにちらっと話してからは誰にも話してなかったのだ。
「不思議な縁ですね〜」
 夏実殿が言う。確かにそうだ。異国で出会って、もう二度と会うことはないと思っていたのに、あのときとは違う国でこうして再会するなんて、一体誰が想像するだろう?
 バン・チャン(仮名)はふとやや真面目な顔をして、私の方へ向き直った。
「あんときはマジ助かった。オメーがいなかったら、俺はきっとここにはいないぜ」
 ……そうしみじみ言われると照れるのだが。
「どーいたしまして。ところで、まだちゃんとした本名を聞いてないのだが。バン・チャン?」
 冗談めかしていうと、バン・チャン(仮名)の頬がひくりと引き攣った。びしっと指を突きつけられる。
「俺サマは美堂 蛮様だ! 断じてそんな胡散臭ェ中国名じゃねえ!! よォく覚えとけ小娘!」
「私は小娘でなく、音羽みどりという。そっちこそよく覚えておけ」
「口の減らねえガキだな!」
「そこがウリだ」
 余裕綽々に見せるのはお手の物だ。思えば、あのときから既にこのテの才能みたいなものはあったのかもしれない。
「おっかしー! 蛮クンってば女の子に言い負かされちゃってる〜」
「あははっ」
「大人気ねえ野郎だぜ」
 ヘヴン殿と天野殿、冬木殿に茶々を入れられて、美堂殿の矛先が三人に向う。そこには、あの暗がりに満身創痍の一人ぼっちで空腹のまま行き倒れていた少年Aの面影は見えなくて、私はこっそり安堵する。
 ふと姉さまが私を見て微笑んだ。私も微笑み返す。予感があった。私はきっとここへ来る。たとえ姉さまの散歩コースに入ってなくても、一人でだって。
 そして彼らとの交流を求め、飲めないコーヒーの代わりにカフェオレを頼むのだ。
「あ、みどりちゃん!」
 美堂にヘッドロックをかまされている天野殿が私を呼ぶ。今はまだ気恥ずかしいばかりのこの呼称も、いつか慣れるときがくるだろうか。
 天野殿は些か苦しげな格好になりながらも私に向って右手を差し出し、満面の笑みを浮かべた。
「これからもよろしくね!」

 

 

こちらこそ