ぐいと何かに引っ張られたような気がして、士度はハッと気が付いた。
「おっはー」
 ひらひらと手を振る彼の姿に瞠目する。半ば呆然と名前を呼んだ。
「亜紋……? なんでオメーがここにいんだ? ってかここは何処だよ?」
「さあ? オレも気付いたらここにいたんだ。多分、あの世とこの世の境目ってやつだろーと思うけど。ん〜、けどそれにしちゃあ、川も花畑も見えないねえ」
「なっ……!」
 飄々と告げられた言葉に絶句する。
 あの世とこの世の境。もしも真実であるのなら士度がここにいるのは当然だ。けれど。
「ならなんでお前がここにいんだよ!?」
 嫌な予感が胸を過ぎり、それを誤魔化すように問い詰める。この不安を誰かに否定してほしかった。
「だってあっち行くの、オレだし」
「はあ!? いや待て、何がどうなった? マドカは無事か? 銀次を雷帝にしてオレは死……」
 わけが解らず士度はひたすら混乱する。ここに至るまでの経緯を回想し、過程をまとめようとした。
「そーだよ士度、お前は死んだ。でも大丈夫。あのコは無事だし、雷帝は兜に勝った。全部お前の思惑通り。おめでとさん」
「…………」
 亜紋の口調には険悪さも悲嘆さも、ましてや怒りさえもない。ただ淡々とした口調に、士度はけれど彼が相当に怒っていることを知る。本気で怒った亜紋は怒鳴ったりなどしないのだ。
「っていうかね、折角来てやったのにオレの出番殆どなかったじゃん。どっかの誰かさんは裏切ってくれた挙げ句、勝手に死んじゃうしさ。あんまりにムカついたから、士度には罰を与えることにした」
 ここで亜紋はにこりと笑った。死を運ぶ死神が、死者に下す罰。こほんと仰々しく咳払いをして宣言する。
「お前にオレの鬼魔羅をやる」
「なっ、亜紋オメー、何言って……!」
 嫌な予感、不安がそのまま的中してしまった。声を荒げる士度に、亜紋はいつもの飄々たる態度を取り戻して拗ねてみせる。
「ダーメ。もう決まっちゃったもーん。ってかあげちゃったもーん。返品は認められませ〜ん」
「亜紋!!」
 士度が苛立ちを含めて怒鳴っても、そんなことはどこ吹く風と、亜紋はにこりと笑った。
「マドカちゃん、だっけ? 士度の彼女。可愛い子じゃん! 笑った顔が見れないのが残念だね、何たって女の子は笑顔が一番可愛い……」
「なんでお前がそんなことすんだよ!? 今回のことはオレの責任だ。オレが、あいつから離れなかったから……っ!」
 くだらない我が儘に彼女を付き合わせた。伸ばした手を掴んでくれたから、そのままずっと振りほどかないでくれたから、そんなマドカの優しさにつけ込んだままズルズルと至った結果がこれだった。その尻拭いに仲間まで巻き込んで。なんという醜悪さ。下らない我が儘は呆れるほど自分勝手で、救いようもないほど浅ましく愚かだ。
「じゃああのコは自分の代わりに士度が死んで、それをありがとうって笑えるようなコなの?」
「何を……」
「違うんだろ? だから士度は命を懸けられたんだよね。自分の命と引き換えにしても、彼女を守りたいと思ったんだよね。でもそれじゃあハッピーエンドにはならないよ。彼女を救えて、士度はそれでいいかもしれない。でもさ、マドカちゃんは? 士度が死んだ後に目を覚ましたマドカちゃんは何をどう思うと思ってんのさ」
 何かを耐えるように顔を歪ませた士度から一度目を離し、亜紋が言う。
「マドカちゃん、きっとすごく悲しむよね。それだけならまだいいかもしれない。原因になった自分を許せなくて、責めちゃうかもね」
「だからマドカは何も悪くねえだろうが!!」
「うん、オレたちはちゃんと解ってるよ、士度が自分の我が儘貫き通した結果だって。でも、マドカちゃんはそうは思わないかもしれない。誰が何を言っても、士度が『マドカちゃんを助けるため』に命を投げ出した事実は変わらないから。きっと一生しこりになって残っちゃうんじゃないかな?」
「っ!!」
 士度の鋭い眼光が突き刺し、いつ飛び掛られてもおかしくないほどの殺気が漂うが、けれど亜紋は引かない。あくまでいつもの態度を崩さず、それでも目は士度と変わらないくらい真剣だった。
「そんな、死ぬよりつらいかもしれない目に、士度はマドカちゃんを遭わせる気なの?」
「マドカは強い。オレなんかよりもずっとな。オレがいなくなっても、時間が経てばきっと立ち直って――」
「怒るよ士度。解ってるくせに」
 静かだが有無を言わせぬ亜紋の声に、士度は黙るしかない。
「確かにマドカちゃんは強いかもしれない。士度の彼女やってるくらいだもんね。でも、マドカちゃんは普通の女の子じゃないか」
 マドカの心は強くて優しいが、それでもどんな悲しみにも耐えられるというわけではないだろう。肉体的にも何かの特別な修行や鍛錬を積んだわけではなく、彼女は自分を守る術を持たないただの非力な少女にすぎない。だからこそ何に換えても守ろうと、守ってやると誓ったのではなかったのか。
「巻き込んだことを悪かったと思うなら、目が覚めて一番に士度が慰めてあげるのが義務だろ。きっと彼女、怖い思いたくさんしたんだから」
『好きよ士度さん。この世界の誰よりも、あなたが――』
 そう告げられた日が、なんだか遠い昔のように感じた。危険を察知しても、心のどこかに慢心があったのだろうあの頃。温かな日差しの中ではにかむように笑いながら、マドカは幸せそうに言ってくれたのだ。あの笑顔を翳らせてしまうことこそ、何よりも許し難い罪悪ではないのか。彼女を悲しませるために、命を懸けたのではなかったのだから。
「……だからって、お前がオレの代わりに死ぬことねえだろ。夢があったんじゃねえのかよ」
 士度が生き返るということは亜紋が死ぬということだ。たとえ本人が望んだことであったとしても、自分と仲間の生死を引き換えにするなど出来ない。二人で無事に戻りたい気持ちがないわけではないのだ。けれどそれは、仲間の犠牲の上に成り立つものではないから。
 亜紋は微笑んで首を振った。
「うん、でももういいんだよ。だってオレはもう生きすぎた。そろそろ休んでもいいかなって思ってるんだ。いい機会だよ。鬼魔羅だって、いつか返そうと思ってたし。……最後にいい夢も見れたしね」
 その「夢」がどんなものか士度には知れなかったが、それを告げる時、亜紋は少しだけ遠くを見るような目をした。何かを振り切るように頭を振って、亜紋はねえ士度と呼びかける。
「何があっても一緒にいたいと思う人ができたのは、全然悪いことじゃないよ。だから士度の、マドカちゃんを大切にしたいしたいって思いも、ずっと一緒にいたいって思いも、全然間違いなんかじゃないんだ」
 そしてくすぐったそうに笑った。嬉しくてたまらないというように、とびきり素敵な何かを伝えようとするように。
「オレさあ、ホンっトに嬉しいんだ! だっていっつも一人でつまんなそーな顔してたヤツがいつの間にか、何を差し置いても助けたい人ができて、その人もきっと士度のことが好きでいてくれて。オマケにオレたち以外にも、士度のためなら命捨ててもいいって奴らが結構いるみたいだし。……こんなすごいことって、ちょっとないよな」
 亜紋の知っている士度は、いつも冷めた目をしている少年だった。つまらなそうな顔をしているくせに、いざ誰かに構われると戸惑って逃げる。亜紋から見れば好んで独りになっているとしか思えなかった。ほんの少し視点を変えれば、差し伸べられている手はいくらでもあったのに。そのことを彼に伝えたのはきっと彼女なのだろう。それだけで充分、亜紋が命を差し出す理由になり得る。彼らの幸せに貸せる手があることを、ただ誇りに思った。
「それでも士度はまだ、自分が死んでも誰も悲しまないって思ってるわけ?」
 言葉に詰まるその表情にこそ答えを見出し、亜紋は笑う。可笑しくて仕方ない。嬉しくて嬉しくて、踊りだしたくなった。
「おめでと、士度! あのコと一緒に幸せになれよ。オレの分までなんて言わない。士度がオレの命を背負うことなんてないんだ。だから士度は士度の分だけ、幸せになって幸せにしてやれよ」
「亜紋っ!」
 徐々に揺らいでいく士度の体を見て、呼びかける声には応えず手を振る。時間切れということなのだろう。恐らくはもう二度と会えないのに、不思議と寂しくはなかった。
「元気でな、士度! 劉邦と薫流と、笑やんとマドカちゃんによろしく!」

 

 ――――どうか、どうか彼らに相応しい倖いを。

 

 

***

 

 

 亜紋を見失ってからも、混濁する意識の中で士度は自分が倒れた後の出来事を見た。言いたいことも言い返したいことも多々あったが、見ているものは既に起こったことを回想している映像にすぎず、結局は何も出来ずに終わった。
 そしてようやく目が覚めたのだ。眼を刺す眩しさに一瞬瞼を伏せるものの、瞬きを繰り返すうちに視界がクリアになる。まず高い天井が目に入った。
(ここ、は)
 どうやらマドカの邸の、自分に宛がわれた部屋らしい。
(……生きてる)
 胸に手を当てると、確かに脈打つ鼓動を感じた。士度は拳を握り固め、唇を強く噛み締める。そうでもしなければ眼の奥の熱いものが零れてしまいそうだった。瞼を限界まで開かせる。
「勝手なこと言いやがってっ……!!」
 こちらに何も言わせなかった。感謝も謝罪も、別離の言葉さえ。言いたいことだけを言って、言祝ぎだけを残して去った。なんて勝手な奴だと憤る。
『幸せになって幸せにしてやれよ』
 そんなことを言ってもらえるような身ではないのに。本当に幸せになるべきは、彼であった筈なのに。
(マドカ)
 ハッと我に返って慌てて見渡すが、マドカの姿は見えなかった。士度はシーツを跳ね除けるようにして起き上がる。一瞬、眩暈と激痛に襲われたが、ベッドの上に逆戻りすることにはならなかった。思うように動かない足に鞭打って、マドカの部屋を目指す。ノックをしても返事はない。迷ったが、心を決めて入ることにした。ドアを開ける。
「マドカ……」
 彼女はまだ深く眠っていた。無理もない。一時でも体を兜に蹂躙されてしまったことで、何らかの弊害が出なければいいと願う。
 ふいに亜紋の懐かしい声を聞いた。遠い昔、いつもへらへら笑っている彼に苛立ちと純粋な疑問を込めて尋ねたこと。
『死んでいった人達の分まで笑ってやんなきゃ、つらすぎるじゃんか!』
 息を吐いた。
(……解ったよ、亜紋)

 ――――倖いを。

 それが望みならば果たそう。幸せにして幸せになって、それでお前が笑うのならば。
「……マドカ」
 描く幸せの図に不可欠なひとの名を呼んだ。そっとその頬に触れてみる。小さく聞こえる寝息と温かな体温に、士度は泣きたくなるほど安堵した。
 願わくは、目覚めた彼女が最初に目にするものは、何よりも誰よりもこの身であるように。

 

 

祝福はその胸に