「おう、ご苦労だったな」
クゥンと鳴いて擦り寄る犬を、士度は撫でて労ってやる。これで奴らの奪還は失敗。獲物を目の前で掠め取られた美堂蛮はさぞかし悔しがっているだろうと思うと、自然と口の端も上がろうというものだ。
適当な所へ腰を下ろし、改めて手の中のバイオリンを見詰める。それと同時に、小柄な盲目の少女のことが頭に浮かんだ。
(…………悪ィこと、しちまったかもな)
彼女には何の罪もない。バイオリンを盗まれ信頼していた執事にも裏切られ、奪り還せたと思ったバイオリンは腹いせのために再び奪われた。とんだとばっちりである。
(泣いて、るか?)
そう思うだけで、何故だか胸がずきんと痛んだ。士度は顔を顰める。
(罪悪感なんざ、とっくに捨てたと思ってたのによ)
ならばこの胸の痛みはどこから来るのだろう。
脳裡にバイオリンを奏でるあの少女の姿が思い出される。綺麗だと、ただ純粋にそう思った。
バイオリンを構える凛とした立ち姿。紡ぎ出される馨しき旋律。それらが織り成す空気――いうならば彼女そのものに、士度はあの時五感のすべてを奪われたのだ。
もし彼女が手にしたバイオリンが本物のストラディバリウスであったのならもっと長くあの世界に浸っていられたかもしれないと思う自分に、自分で驚く。仕事は仕事。いつだってそう割り切っていた筈だ。仕事に私情を挟むような者をプロとは呼べない。解っている。自分は彼女に、一体何を望んでいるというのか。
『人を殺めてはだめ……』
自らを陥れた人間の命さえ惜しんだ彼女。
(……期待が、あるんだ)
馬鹿馬鹿しくてくだらない、お門違いも甚だしい、彼女にしてみれば傍迷惑以外の何物でもない期待が。それでも拭い切れないモノ。忘れて気付かないフリをして、けれど心のどこかで未だ燻っていた願い。銀次の言葉が信用出来ないとか、満足出来ないとか、そういうことではない。ソレとコレはもっと別のものだ。
(もしかしたら、あいつなら)
クゥンと鳴く声にハッと我に返った。苦笑して、擦り寄ってくる頭を撫でてやる。
「……そうだな。お前がいなくなって、ご主人も困ってるだろーしな」
士度は立ち上がった。
雨止んで虹架かる
用事はすべて終えた筈だった。ストラディバリウスもモーツァルトも彼女に返したし、彼女の笑顔も見られた。他に何も心残りなどある筈はないというのに。
(士度、行カナイノ?)
動物たちが口々に呼びかける。陽は落ちて、辺りはもう夜と言ってさしつかえないほど暗い。
(ああ……。ま、別に行く宛てがあるわけでもねえし、そう急ぐこともねえよ)
そう言いながら、士度は彼女のコンサート会場から離れられない。コンサートは既に終わったらしく、着飾った観衆がゾロゾロと外に出て来ていた。
(変ナノ。士度ラシクナイヨ)
(そうか?)
自分らしくないことは自分が一番自覚している。それがどんなに荒唐無稽なことなのかも。胸の内に抱く小さな、けれど切実な願いは叶わない。何度も望んで、そのたびに打ち消してきたモノ。
(……オレも大概に馬鹿だよな)
自嘲的な笑みが零れた。叶わないと知っているくせに望みを捨てられないばかりか、あまつさえ、己より一回りも二回りも小さな少女に未練を残しているなど。
(士度、オ腹空イタ。ゴ飯食ベタイ)
(…………そうだな)
仲間たちが空腹を訴え始めたのを機に、士度は重くなった腰を上げることにした。このまま放っておくと手当たり次第に人間を襲うものが出かねない。そうなったらいろいろとまた面倒だ。居場所を探すよりもまず、彼らの食料調達のことを考えなければ。
だから、その声が聞こえた時は思わず自分の耳を疑ったのだ。
「しっ……士度さん待って!!」
士度は咄嗟に足を止めて振り返ってしまう。
「よ、よかった……もう何処かへ行ってしまったかと……」
ホッと安堵したように微笑むマドカに、我に返った士度はあっさり背を向けて歩き出した。二人の距離は離れていたが、万が一にも追いつかれないよう足を速める。
「あ、士度さん!」
駆け寄ってくる気配を感じたが、今度は振り返らない。振り返らないと決めた。
「……何の用だ? ストラディバリウスもモーツァルトも返しただろ」
「あ、はい。ありがとうございました。おかげで、今夜は最高の演奏ができて……」
「そうかよ。よかったな」
その礼を言うためにわざわざ追いかけてきたのだろうか。だとしたらなんて律儀な少女だろう。
「あっ……あの!」
士度がそう思ったのも束の間、マドカの用はそれでは終わらなかったらしい。歩調も歩幅も明らかに違う男に追いすがろうと、必死に駆けてくるのが判った。
「あの、阿久津さんの邸には戻らないって……これからどうされるんですか? 行く宛てとかは……」
「あんたに関係ねえだろ」
努めて冷たく突き放すように言う。胸が重く痛んだが、気付かないふりをした。
「もし、もし何処にも宛てがないのなら、私の家に来てくれませんか!?」
止めそうになった足を慌てて動かす。何を言い出すのかこの少女は。
「使っていないお部屋もたくさんあるし、大きなお庭もあるんです。比べたことがないからはっきりとは判りませんが、きっと阿久津さんの邸と同じくらいの広さはあると思います」
矢継ぎ早な言葉はどこか必死で、だからこそ士度は尚更混乱した。
「あんた、自分の言ってることが解ってんのか? オレはあんたの大事なバイオリンを奪ったんだぜ?」
「でも返しに来てくれました。ただいらないだけなら、捨てても売ってもよかった筈です」
「何か勘違いしてるみたいだけどな、俺はあんたが思ってるような人間じゃねえ。用心棒が欲しいなら他あたってくれ。とにかく、あんたにとっちゃオレはただの疫病神でしか、」
「用心棒なんていりません。私が勝手に言っていることなんですから、迷惑だなんて思わないでください。そんなことでいなくなってしまわないで。私はっ……!」
言葉が不自然なところで途切れ、小さな悲鳴と共にドサッと倒れ込む音がやけに大きく聞こえた。思わずさっきまでの決意も忘れてつい振り返ってしまう。
目の前の男に追いつこうとすることに夢中で足元の注意を怠っていたらしい。顔面を強かに打ちつけてしまったのか、額や鼻頭が赤く染まっていた。膝も擦り剥いてしまったらしく、滲み出る血が痛々しい。
「いたた……」
「…………」
士度は、大丈夫かと声をかけることも出来ずに立ち尽くす。このまま何事もなかったかのように歩き去ってしまうことが正しいのだと知っていた。その方がいい。彼女のためにも己のためにも、それが一番取るべき行動なのだ。一度でも守るべき他人を持ってしまったら、もう自分の身だけを心配しているわけにはいかなくなってしまう。お荷物を背負いながら戦って敵う相手ではないのだ、奴らは。
マドカは起き上がろうとするも、膝の痛みが邪魔をしているらしく、すぐに顔を顰めて手を突いてしまう。その様はまるで、生まれたての小鹿が懸命に立ち上がろうとしている姿を思わせた。
「士度さん、待って。行かないで」
焦点の合わない目が彷徨う。目尻に浮かぶ涙も震える声も、外傷のせいではないと解ってしまった。そんな表情をさせたいわけではないのに。士度は硬く拳を握り締め、唇を強く噛んで足を踏ん張る。そうでもしなければ、今すぐにでも駆け寄って彼女に手を差し伸べてしまいそうだった。
(……どうして)
何故そんなにも必死になって、引き留めようとしてくれるのだろう。居場所が無いと零したから? それがお優しいお嬢様の使命感か何かを刺激したのだろうか。ならばさっさと目を覚まさせてやらなければならない。いっそ、魔里人と鬼里人との戦いから懇切丁寧に説明してやろうかとさえ思う。
「同情も施しもいらねえ。自分の居場所くらい、自分で見付けられる。オレたちのことはもう放っておいてくれ」
マドカは強く頭を振った。
「違います。そんなんじゃありません。私は、私がただ勝手に、あなたに一緒にいてほしくて」――――あなたと一緒にいたくて。
それは、彼女のこれ以上ないくらい真っ直ぐな言葉。
士度は悲しくもないのに何故か泣きたくなった。涙は出ないけれど、無意味に叫んで喚き散らしたい衝動に駆られる。胸が苦しい。熱い。こんな感情は初めてだ。行かないでと縋り、一緒にいてほしいと乞う彼女を抱き締めたくなった。
(だからできねえんだよ!!)
唇を噛み切ってしまったのか、口の中に鉄の味が広がった。けれどそんなことはどうだっていい。疼いて仕方がないのはもっと別の場所だ。
(ドウスル? 士度)
(士度、ドウスル?)
(士度)
惑う士度を促すように仲間たちが口々に言う。その中でも一際低くしっかりと思い声が、士度の鼓膜を振るわせた。
(士度)
百獣の王の名に相応しい立派な鬣と強さを持ったライオンが、静かに前へ進み出る。
(忘レルナ。オ前ニハオレタチガイル。オ前トオレタチハ無敵ナノダロウ?)
それはいつか、士度自身が仲間たちに言った言葉で。
(オレタチハ居場所ナンテ何処デモイイ。オ前ガ行ク所ナラ何処デモ行ク)
お前はお前の心のまま好きにしたらいいと、最後にその背中を押す。
士度はため息を吐いた。いつしか立つことも忘れたように座り込んでいるマドカに、そっと手を差し伸べる。
「……後悔するぜ。オレなんか招き入れて」
「それじゃあ……!」
ぱあっと、マドカの顔が明るく輝いた。その拍子にぽろりと一粒の涙が零れるが、彼女が特に気にした様子はない。
「貸してくれるのは庭だけでいい」
「ありがとうございますっ!!」
「……何であんたが感謝してんだよ」
「だって、だってすごく嬉しいですから……!」
ゴシゴシと涙を拭う表情は本当に嬉しそうに笑っていて、士度の方が何となく照れ臭く感じてしまう。その気持ちを誤魔化すように乱暴に頭を掻くと、ひょいと軽々マドカを抱き上げた。
「きゃっ!? し、士度さん、何を……?」
これにはさすがのマドカも戸惑って悲鳴を上げる。頬が赤いのはきっと気のせいではあるまい。
「怪我してんだろ。運んでやる」
「だっ、大丈夫ですよ! 近くに車を待たせてあるんです。そこまでなら私でも歩け……」
「これからあんたの家に置いてもらうんだ、これくらいさせろよ」
言いながら、面白そうにからかってくる仲間たちをキッと睨みつけた。役目を取られたモーツァルトを謝罪の意味を込めてひと撫でし、歩き出す。
「……ありがとうございます」
マドカは顔をさらに赤く染めて小さく呟いた。その様はとても可愛くて。
この選択は間違っている。今は良くてもいつかきっと、今日のこの日を後悔する時が訪れるだろう。巻き込んでしまうと解っていて、何故最後まで拒絶出来なかったのか。その答えはまだ解らないけれど。
この腕の中にマドカがいて、こちらの視線に気付いたように柔らかく微笑んでくれることを、ただ素直に嬉しいと思った。