私は音羽みどり。
 日本が世界に誇る天才バイオリニスト・音羽マドカの実妹だ。現在十四歳で、今年大学を卒業してから特に通学はしていない。たまに、暇つぶしと知的好奇心を満たすことを兼ねて、通信教育とかに手を出したりしてはいるけれど。
 私たち姉妹は外見がとても似通っていて、違うことといったらそれぞれのサイズと性格、目が不自由か否か、音感の有無くらいなもの。黙って並んでいたらそんな違い(特に性格)すら殆ど気付かれない。だから姉さましか知らない人は私たちのギャップに多少なりとも驚くらしいけれど、でも私はそんなこと特に気になんてしていなかった。私が気にしていることは、心無い輩の口さがない言葉で姉さまが傷付いてしまわれないかどうかだけ。だって姉さまは私がお守りするのだ。生まれた時から光を知らないという姉さまは、せめてその身だけでも光の中にいてほしいから。
 けれどその姉さまは今、というより昨夜、阿久津邸からお戻りになってからずっと元気がない。大事になさっていたバイオリンは戻らず、信頼していた菅原が実は敵方の人間で、あまつさえ姉さまの目と言っても過言ではない盲導犬のモーツァルトまで行方不明になってしまったのだから、まあ無理もないと言えばないのだが。
 それでも、コンサートを無事完璧に修めてしまわれるのはさすがだ。すべての曲が弾き終わった瞬間、割れそうなくらいの拍手が会場を満たして、それは姉さまが退場しても暫く納まらなかったという盛況ぶりだったのだから。

 

***

 

「モーツァルト!? お前、いつ戻ってきたんだ!」
 コンサート開始前も終了後も、私は姉さまの楽屋には行かないようにしている。姉さまに言われたからではなく、ただ自分で勝手にそう決めているだけだ。その決め事をやっぱり勝手な理由で破って楽屋のドアをノックした私は、姉さまの代わりに出迎えてくれた見覚えのある犬に驚いた。
 いつもと変わらない(ように見える)その顔が憎らしい。モーツァルトの無事の帰還は姉さまが存分に喜ばれたことだろうから、私はどんな理由があろうと役目を放棄したこの不届き者(犬?)叱ってやろうと思う。
「今まで何処をほっつき歩いていたんだ!? お前がいなくなって、姉さまがどれだけ心配したと……!」
「いいのよみどり。こうして無事に帰ってきてくれたのだし、ストラディバリウスもほら、この通り戻ってきたの」
「ええっ!? それじゃあモーツァルトは、ストラディバリウスを?」
 もしそれが本当ならこれ以上に素晴らしい犬はいないだろう。私がすべきは叱ることではなく、彼を褒め称えることだったのだろうか。けれど姉さまはゆっくりと首を横に振られた。
「モーツァルトもストラディバリウスも、ある人がわざわざ届けに来てくださったのよ」
「だったら、その方のお名前とご住所は? 後日御礼に行かなければ」
 恩を受けたならば返す。それは当然のことで、そのことを差し引いても私個人から一言お礼が言いたかった。だってそのおかげで、姉さまが笑ってくださるのだから。
「…………私なんかが行く先を尋ねたら、きっと困ってしまうと思うわ」
「は?」
 メモとペンを取り出した私は、不覚にもなんとも間の抜けた声を出してしまった。けれど姉さまはそんな私など気にも留めない様子で、生意気にも姉さまの膝を独占しているモーツァルトを撫でながら呟いている。その眼差しはどこか、ここではなく遠くを見ていらっしゃるように見えた。
「悪い人じゃなかったわ。初めて逢った時は少し怖かったけれど、でも思った通りに優しい人だったの」
 もしかして、犬とバイオリンを送り届けてくれた方のことだろうか? でも私が知りたいことはその方の名前と住所で、お人柄ではないのだが。
「変かしら……。私、あの人のことなんて全然知らないし、そんなに喋ってもいないのに」
 ほう、と切なげなため息が姉さまの口から零れた。心なしか頬も赤くなっていらっしゃるような。………………これはもしや、ひょっとするとひょっとするのか?
「……姉さまは、その人が好きなのか?」
「! 違っ、そんなんじゃ……!!」
 姉さまはバッと弾かれたように顔を上げた。そこは頬どころか耳まで赤い。否定になってないよ、姉さま。
「阿久津さんの邸でストラディバリウスを探している時に助けてもらって……私、あの人の敵だったのに」
 姉さまの話からすると、彼は阿久津の用心棒らしかったのだが、どういうわけか最終的に姉さまたちの仲間になってくれたらしい。取りようによっては姉さまのために寝返ったと思えなくもないが、やはり敵の用心棒だった男を姉さまの想い人にすることはかなり躊躇われる。うー、何だか嫌な予感がするなあ……。
「もう阿久津さんの邸には戻らないって。仲間の動物さんたちと一緒に暮らせる場所を探すんだって言っていたの。私たちの家だったら大きな庭もあるし、きっと士度さんたちに不自由させないのに……」
「えっ、ちょっ、姉さま!?」
「そうだわ、士度さんたちを私たちの家にお呼びしたらどうかしら? お部屋もたくさん残っているし! きっと賑やかになるわ。素敵でしょう? 士度さんは怒るかもしれないけど、このまま何も言わないでいるよりいいと思うの」
 とびきりの名案を思いついたかのように笑う姉さまに、私は脱力した。うわあああ嫌な予感的中! 全ッ然嬉しくないぞ!!
「と、父さまには何とご報告するんだ?」
「私がお話します。大丈夫よ。時間はかかるかもしれないけど、きっとお父様も解ってくださるわ」
 その根拠と自信は何処から来るのだろう。
 …………駄目だ。
 私は自らの敗北を受け入れることにした。こうなった姉さまはもう私なんかでは止めることなど出来はしない。だって姉さまがそう言い出した時点で、私は既に父さまにどうご報告すればこの提案を受け入れてくれるかどうかの考えを廻らせていたのだから。
 ため息を吐いた。
「……姉さまの気持ちはよく解った。父さまには私から伝えるから、姉さまは早く、そのシドさんとやらを連れて来るといい」
 その方がまだこの付近にいらっしゃれば、の話だが。
「みどり……!」
 姉さまの顔がパッと明るくなった。目も潤んでいる気がする。ああ本当に、私は姉さまのこういう表情に弱いなあ。ありがとうと抱き締められて、きっとすぐ離れていってしまうその肢体に久し振りに思いっ切りしがみついた。
 さよなら、私だけの姉さま。姉さまが自ら心を寄せる男性に出逢えたことは恐らくとても喜ばしいことで、来るべき時の変化だったのだろうけれど、私はやっぱり寂しくて悔しい。だって私の一番はこれからも姉さまで揺るがないのに、姉さまの一番は別の知らない男になってしまうのだ。しかもそいつのせいで、私はこれから海を渡らなくてはならなくなった。これで仕様もない男だったらどうしてくれよう。でも、姉さまが選ばれた御方だからなあ。
 姉さまは私の気の済むまで付き合ってくれて、そっと抱擁を解くとモーツァルトを連れて一目散に駆け出して行ってしまわれた。私は携帯を取り出す。こいういことは多分早い方がいいのだ。
 父さまへの報告は何とでもなる。それに私がすることは父さまへの報告だけであって、本当に認められるか否かはその男次第だ。でも私は知っている。何年かあと、白のウェディングドレスに身を包んだ姉さまの隣にいるのは、きっとその男なのだ。
 繰り返されるコールに、私は再び深くため息を吐いた。

 

 

***

 

 

「お初にお目にかかる、冬木殿。私は音羽みどり。マドカ姉さまの妹だ」
 姉さまが連れていらした男は、何と言うかまるでチンピラのようだった。体型も造作は悪くないが目付きが悪い。というか眉毛が無いのではないかこいつ? いかにも脛に傷を持っています、といった感じだ。しかもゾロゾロと後をついて歩く動物たちの中にはライオンまでいるし。元サーカス団か何かか? まさか姉さまに噛み付きやしないだろうな。
 けれど彼――冬木士度が私の喋り方や態度を見て、生意気なガキめという顔をしなかっただけ、及第点をくれてやってもいい。まあ、動物を好きな人間に悪い人はいないというし。彼らに好かれている冬木殿は、きっと「良い人」なのだろう。そう思うことにする。
「邸の者のことなら心配ない。不備があったなら遠慮なく近くの者に言いつけてくれ。私は暫く父さまのところへ行かねばならないから、その間、姉さまのことを頼む」
「ああ、マドカは俺が守る。まかせとけ」
 ふむ、ここはしっかり頷くのだな。とりあえず、下心があるようには見えないが。
「気を付けてね、みどり」
 冬木殿の傍らで姉さまが微笑んで抱き締めてくれた。うん、今はまだこの腕は譲ってやらないぞ。
「姉さまも。姉さまの選ばれた方だから、そうそう間違いは起こらないと思うけど……」
 万が一の保険として、信頼の置けるメイドをニ、三人残していこう。姉さまは嫁入り前なのだし、まだ正式に冬木殿が恋人に認定されたわけではないし。
 ちらりと冬木殿に目をやると、バチッとまともに目が合った。私は姉さまから離れて、冬木殿の近くへ駆け寄る。
「何だ?」
「悪いが、少し屈んでくれないか?」
 背の高い冬木殿は私の目線に合わせてしゃがんでくれた。早速こそっと耳打つ。
(姉さまは可愛らしいだろう? 好きになってもいいぞ)
「なッ……!」
 余程不意打ちだったのか、仰け反ってうっかり姉さまの方を向いてしまい、慌てて視線を逸らしている。あはははは。大人のくせに耳まで真っ赤だ。結構ウブだったりするのだろうか。なら少しは安心していいのかもしれない。
「ただ、一度手を出したなら最後までしっかりと責任は取ってもらうからな。よく考えて、覚悟しておくといい」
 でも手を出すのは、姉さまが御年十八を過ぎてからにしてほしいな。無理強いするなんて以ての外だ。
「オイ!」
「いってきます、姉さま!」
 上擦ったような声と焦るその様が面白い。私は声を立てて笑うと、車が用意してある場所まで駆け出した。
「いってらっしゃい、みどり」
 姉さまの優しくも温かな声を背に受けて、足はどんどん加速する。寂しい気持ちも悔しい気持ちも消えないけれど、なんだか頗る気分が良かった。

 

 

先駆は旅立つ