「士度さん、お隣いいですか?」
 頭上から聞こえた声に士度が顔を上げると、マドカが木々の間から可愛らしく顔を覗かせていた。
「ああ」
 寝転がったまま応えると、彼女は嬉しそうに笑って失礼しますと士度の隣に腰を下ろす。何だかその様が妙に照れ臭くて、士度はそっぽを向いた。無口な士度と大人しいマドカとでは、会話が弾むことはあまりない。話すことがないというより、とりたてて会話を必要としない穏やかで心地好いこの空間を尊んでいるのだと互いに知っていた。
「そう言えば士度さん、ここは野原と言えるんでしょうか?」
「は? ……あーそうだな、そうなるかもな」
 音羽邸の庭は確かに庭ではあるのだが、人の手がふんだんに加えられている庭園とは多少趣が異なる気がする。唐突に何だろうと思いつつ、士度が言った。
「そうですか」
 何故かマドカの声が明るくなって、もぞりと動く気配がする。身じろぎではない。マドカの長い髪が、風もないのに士度の服の上を掠めた。
「…………?」
 何だと顔を向け、士度はその体勢のまま暫し固まった。気配で顔を向けられたことに気付いたマドカは、にこりと笑ってみせる。
「なっ、何やってんだお前は!? 服が汚れるぞ」
「大丈夫ですよ。後でシャワーも浴びますし着替えもします」
 そーゆう問題でもねえんだが、と士度はガシガシと頭を掻いた。彼女は普段お嬢様然としているくせに、たまに思わぬ行動にでたりするから困る。――ますます、彼女から目が離せなくなってしまうではないか。
「……直に寝転がるのは、お嬢様らしくねえんじゃねえのか?」
「そんないじわるなこと言わないで。みんなの前ではこんなことできないんですもの。でも、士度さんといる時はみんなの注意もそんなに厳しくないみたいだし」
「…………」
 この邸の本当の主人であるマドカの父親は、未だ帰ってくる気配はない。彼の不在中に令嬢に何かあってはいけないと、使用人たちがマドカの行動に目を光らせるのは無理もないだろう。けれど士度と一緒にいる時は違う。気を遣っているのか何なのか、二人のツーショットシーンに出くわした彼らは微笑ましげな笑顔を残してその場を下がることが、いつの間にか暗黙の了解となってしまっているのだ。そこまで信用されても、彼らの大事なお嬢様への下心に多少なりとも自覚のある士度としては、なかなかに複雑な気分である。
「一度でいいから私、野原でお昼寝というものをしてみたかったんです」
 そんな周囲に気付いているのかいないのか、マドカは楽しそうにふふふと笑った。その顔を見ると、士度はいつも大抵のことはどうでもよくなってしまう。よくない兆候だと解っていても自覚した時は既に遅く、どうしても強く出ることが出来ないのだ。いつからこんなに情けなくなったのだろうか。誰か第三者が傍にいる時は、まだ自分を保っていられるのに。
「こんなふうに風や草を感じるのは初めてかもしれません。気持ちがいいですね」
「…………そうだな」
 今回も勝手に脱力する体に抗えず、士度も仰向けになって空を眺めた。青い空に白い雲がゆっくりと滑っていく。頬を撫でる風が心地いい。はしゃぎ回り、談笑に興じる仲間たちの声が鼓膜をくすぐった。
 村を滅ぼされ、追われて無限城に逃げ込んだ頃は考えもしなかった穏やかな日々。無限城で仲間たちと見上げた空はどこか寂寥を感じさせるものがあったのに、この邸で見る空はただ突き抜けるように澄んでいる。吸い込まれそうに高く、ここから何処へでも飛んで行けそうな。
(何処にでも、か)
 幼い頃は何処かへ行きたかった。面倒な重い役目を与えられることが煩わしかったから。鬼里人に村を滅ぼされ、亜紋に鬼魔羅を渡してからは、何処かへ行かなくてはならなかった。奴らから、彼から少しでも遠く離れた場所へと。
 そうして今、甘えでも逃避でもなく、ただ何処にでも行けそうな気持ちを抱いている。それが何故かなんて考えるほど、自分は無知でも鈍感でもない。
「マド――」
 「カ」の音は声にならず喉で消えた。眠り姫と化した彼女に苦笑して、顔にかかった髪を退けてやる。
(士度、マドカ寝チャッタ?)
(マドカ、気持チ良サソウ)
 小鳥たちが士度の上や指にとまって、興味深そうに首を傾げた。そういえばマドカが外で眠っているのは初めてだなと思いながら、口々に鳴く鳥たちに静かにしてろと窘める。
「士度……さん……」
 起こしたかと驚いて、びくりと指を引っ込めるも、続く安らかな寝息に胸を撫で下ろす。一体どんな夢を見ているのやら、笑みを刻む彼女の口元に、気付けば己のそれも緩んでいた。
(マドカ、寝テルノニ士度呼ンダ?)
(士度ノ夢見テル?)
(うるせえっつってんだろーが)
 些か乱暴に振り払うと、小鳥たちは楽しそうに笑って空へ避難する。士度は飛び去る彼らを軽く睨みつけて、またマドカに視線を戻した。一連のやり取りに気付くことなく、彼女は未だ深い眠りの中。なんとなくの安堵と軽い落胆を綯い交ぜにしたような気持ちを誤魔化すように、士度は乱暴に頭を掻いた。
(お前がいたから。――お前がいるから、オレは何処にでも行ける)
 おかえりなさいと出迎えてくれる、優しい場所があるから。
 こんな男を望んでくれた彼女の涙を、自分は決して忘れはしないだろう。
 それでもふと、時折どうしても心に過ぎる不安がある。無償の信頼を抱いている相手がその身を脅かすものであったとするならば、マドカはどうするだろうと。言いたくないこちらの心境を察して、彼女は何も訊かないでいてくれる。それに甘えてズルズルここまで来てしまったけれど、真に彼女のためを思うなら、本当は今すぐにでも手を離してここから去るべきであると知っている。どんなにマドカが泣いて悲しんでも、彼女自身の命には代えられないのだ。
 追われ、いつまた見付かるとも知れない身なら、決まった居場所を持つべきではない。だからこれはただの我が儘だ。こんな子供のような我が儘に彼女を巻き込んでいい道理など、ある筈がないのに。
 ――――けれど、それでも。
(お前はオレが、守るから)
 すべての咎はこの身が背負う。だからどうか彼女を、この場所を誰も奪わないでほしい。否、誰であろうとも奪わせない。
 余程疲れているのかそれともこの場所が余程心地好いのか、マドカは一向に目を覚ます気配を見せない。すうすうと零れる寝息に誘われるように、やがて士度も静かに目を閉じた。

 

 

空の果てを夢に見て