キキッと、傷一つない黒塗りの車が止まる。そのドアを開けてアスファルトの上に降り立ち、みどりは目的の人物を探して首を巡らせた。次いでその大きな目をさらに丸く見開く。
「兄さま!」
「やあみどり、久し振り」
 駆け寄ってきた妹を、痩躯の青年は笑顔で出迎えた。女性と見紛うほどではないものの、女性的な柔らかい顔立ち。黒髪がサラリと風に揺れる。たとえ同じ東洋人であることを差し引いても二人は似通っていて、知らぬ者が見ても彼らが少々年の離れた兄妹であることは容易に想像がついた。
「まさか兄さまが出迎えてくれるとは思わなかった」
「ははは。そんなに薄情な兄と思われてたのか、俺は」
「そ、そーゆう意味ではなく!」
 慌てたように弁解するみどりに、青年――燕は微笑んで頷く。
「解ってるよ。担当していた仕事がひと段落就いたんだ。父さんからも許可はもらったし、今日の俺は一日フリーだよ」
 既に成人し、父の会社を手伝っている燕は多忙だ。みどりもそれを解っているから、メールで知らせたとはいえこの急な訪問の出迎え役に兄が出てくるとは思っていなかったのである。何でもこなせてしまうオールマイティーな人ではあるが、今日に合わせて仕事を終わらせてくれたのだと思うとなんだかくすぐったい。
「そっか、……ありがとう」
 みどりは照れ臭そうに笑った。他人ならまだしも、血の繋がった兄弟に面と向って礼を言うのは照れてしまう。燕は「今回はそれほどでもなかったよ」と肩を竦めておどけてみせた。
 近くに待たせてある車へ向って、兄妹は歩き出す。
「それで、その人の第一印象は?」
「………………チンピラ?」
 互いに主語を欠いた会話であったが、それでも充分に事足りた。みどりは短い時間ながらも対面した男に感じたものを引っ張り出そうと、考えるように小首を傾げる。
「でも馬鹿には見えなかったな。……何と言うのかな、野性的? ワイルド? とにかく背がすごく高くて、見た目はまあそこそこカッコいいと言えなくもないよ。切れ長の目っていうのか? そんな感じ。あ、あとね、眉毛がなかった」
「ふんふん」
 燕は興味深そうに相槌を打つ。
「動物をゾロゾロつれてきてた。何でも、彼らと住める場所を探していたらしい。探す場所を間違えてると思ったよ。地方の山奥にでも行けばいいのに。姉さまと出逢わなかったらどうするつもりだったんだろうな。というか、どうしてニュースにも新聞にも報道されなかったんだろう。あれだけの動物を引き連れて新宿横断してたら、騒ぎになってもおかしくないのに」
 尤も、そんなことを「あれだけの動物」を知らない燕に言っても仕方がないのだが。
「それはそれは」
「姉さまをよろしく頼むって言ったら、任せろって即答された」
「そうか」
「……兄さまはどう思う? やっぱり、表向きは大家と店子的な理由でも、うら若き男女を一つ屋根の下に置くべきではないと思うか?」
 みどりの問いに、燕は乗り込む車を目前につと立ち止まった。つられるようにみどりも立ち止まる。
「わざわざ俺に訊くことかい、みどり?」
 判りきったことを訊くなと呆れたふうでもない。それでも、昼時に今は昼だと言うような口調で燕は言った。
「――――」
「選んだのはマドカだよ」
 まるで、それこそが絶対の証明だとでも言わんばかりに。
「……そう、なんだよなあ……」
 みどりはがっくりと肩を落とした。けれど落ち込んだ様子もなく、次の瞬間にはけろりとした表情で車に乗り込む。
「やっぱり当面の敵は父さまだな」
「そうだね。けど、ある意味それよりも厄介なのはマスコミ方面ではないかな」
「ああっ!! しまった!!」
 みどりは慌てて立ち上がる。が、走行中の車内であったため、頭を思い切り低い天井にぶつけてしまう。動揺のためか痛がることもなく、みどりは燕に詰め寄った。
「うわーっ、どうしよう兄さま!! 今からではいくらなんでも遅すぎる……!」
 世界的にも有名なマドカを、母国のマスコミが知らないわけがない。それでなくとも、先日のコンサートを大成させてからそう日も経っておらず、音羽邸には多かれ少なかれマスコミが陣取っているだろう。そんなところに、マドカが主の留守中に男を邸内にいれていたことが知れれば、一体どうなることか。みどりはその想像だけで震え上がった。
「ああもう、私はなんて馬鹿なんだろう……っ!」
「……まあ、そんなに心配はないと思うけど」
「へ?」
 自分で言っといてナンだけど。妹の慌てぶりがツボに嵌ったのか、燕は可笑しそうに笑った。
「お前の報せを受けてから、仕事の合間にちょっと調べてみたんだ。冬木士度といったね、彼は無限城の出身だよ」
「むげんじょう?」
「邸からも見える、大きな高い建物があるだろう。そこの名前だよ。ピンからキリまでのヤクザみたいな人たちが出入りする無法地帯」
「そ、そんなところにいたのかあの男!?」
 堅気ではなさそうだと思っていたものの「ヤクザ=危険人物」の図式が出来上がってしまっているみどりは顔色を変える。
「そこの元四天王だったらしい。トップが出て行ったせいで解散してしまったらしいけど」
「……やたらと詳しいな、兄さま」
 とてもではないが「仕事の合間にちょっと調べてみた」程度の情報量ではない。
「最近新しくメル友ができてね、名前を教えたらいろいろ教えてくれた。大丈夫だよ、彼は信用できる人物だ」
「なんでそんなことが言い切れるんだ……」
 のほほんと呑気に笑う兄に、みどりはため息を吐いた。そこで、相手の出自は知れたものの何の問題も解決していない(むしろ増えた)ことに思い当たる。
「それがどうして『そんなに心配はない』ってことになるんだ? むしろマスコミどもにとっては格好のネタじゃないか」
「それはさっきみどりが言っただろう、『たくさんの動物を連れていながら騒ぎにならなかった』とね。加えて、あの無限城で四天王をやっていたほどの人だ。何とかしてくれているだろう」
「兄さまは楽観的すぎる!」
 苛立たしげにみどりが吐き捨てた。けれどかといって反論を思いつかず、むっつりと黙り込む。
「もしお前が日本に帰ったとき大騒ぎになっていたら、それを理由に彼をマドカから引き離せるよ」
「それは……考えた。でも嫌なんだ。だってどっちみち、姉さまは傷付くじゃないか」
 そうすることが大好きな姉の笑顔に繋がると思ったから、みどりは単身で海を越えてきたのだ。
 目の見えないマドカが、それでもその中に何かを見付けて選んだ相手だ、その人となりは信用している。脳裡に、彼のあの大人らしかぬ狼狽ぶりが蘇った。きっと彼もマドカに魅かれている。普通にしていればきっと幸せになれるだろう二人が、有名であることや出身のことで第三者からのあらぬ憶測などで傷付けられることは許せない。
 俯いてしまった妹に、燕は小さく苦笑した。指通りのいい髪を優しく撫でてやる。
「本当にお前は、マドカ以外のものには懐疑的だね。少しは彼のことも信じてあげなさい。任せろと言ったんだろう、彼は」
「うん……」
 未だ浮かない顔で生返事するみどりに、さらにとっておきの魔法の呪文を与えた。
「みどり。『マドカが選んだ人』だよ。充分、信ずるに足りると思うがね?」
「……うん、そうだな……」
 心なしか顔が明るくなったようだ。みどりはようやく頷いた。実に単純な実妹に、燕も苦笑を禁じえない。
「さて、お前の役目は音羽家主への重大報告にして交渉だ。まっとうできる自信は如何ほどか?」
 芝居がかった口調で言えば不敵な笑みが返る。薄い胸を精一杯に張って、みどりは高らかに宣言した。
「決まってる。私が赴いて私が話すんだ。何よりあの人は、姉さまが選んだのだから!」

 

 

至上なるひと