「ねえねえあやめちゃん」
 あやめは顔を上げた。ヒトではないこの身に、こんなふうに親しく声をかけてくれる存在は、一人くらいしかいない。
 そんな稀有な存在である稜子は、にこにこと可愛らしい笑顔のまま持っていた櫛を掲げ、きらきらと目を輝かせてこうのたまった。

「髪いじらせてっ!」

 

 

 

 

 

その笑顔に敵はない

 

 

 

「……何だあれは」
 呆れたような驚いたような声で、俊也はそれを指さした。指された本人たちは気付いていないらしく、特に何の反応もない。
「さあ? 少なくとも、私が来た時にはもうああだったよ」
 我関せずっといった様子でページの文字を追っていた亜紀が答えた。ズレかけたメガネの位置を直すと、再び本の世界に没頭してしまう。その代わりのように、武巳が苦笑して答えた。
「稜子さ、前からああやって、あやめちゃんの髪いじりたいって言ってたんだよ」
「……なるほど、な」
 確かに、そうと知らない人間が見れば、二人の少女たちが戯れる微笑ましいワンシーンであっただろう。けれど幸か不幸か、俊也たちはそうではなかった。
 一見気弱な美少女に見えるあやめは、その実人間ではない。物語を共有した者を連れ去る怪異――神隠しだ。
「……前から思ってたが、お前ら、アレを人間と同じものだと思ってないか?」
「う……」
 武巳は視線を彷徨わせる。
 たとえばそれは、「あやめちゃん」などの呼称にもあてはまった。俊也も亜紀も、空目でさえ、あやめがそこにいようと特に気にも留めないが、稜子と武巳の二人は違う。顔を合わせれば挨拶をし、声をかけてコミュニケーションを図る。あやめをメンバーの一人として認めている証拠だった。
「で、でも、もう『力』の半分もないって言ってたし」
「だからって、アレは人間じゃない。少なくとも、俺たちと同じモノじゃない。別にビクビク警戒しろとは言わないが、その辺りを勘違いするな」
「……わかったよ」
 その言葉を合図にしたように、俊也は椅子に腰を下ろした。
 怪異は危険だ。怪異は恐ろしいものだ。そんなこと、とうに解っている。
 けれど。
(稜子、楽しそうだなー)
 意志というものが希薄なあやめでさえ、どことなく楽しそうに見えるのは気のせいか。まるで二人の周りだけ、温かで優しいものに包まれているような気がする。武巳は知らず、頬を緩ませた。
「いいなーあやめちゃん。こんなに髪長いのに、全然痛んでない。すごーいっ」
「え……」
「シャンプーとか何使ってる? ……あれ? っていうか、あやめちゃんってお風呂入ってるの? 入ってるとしたら、魔王さまの家のだよねえ」
「あ……」
「あー動かないであやめちゃんっ!」
「は、はいっ」
 ピンと背を伸ばしてカチコチに固まってしまったあやめに、稜子は別にそんなに緊張してくれなくてもいいんだけどなあ、と苦笑した。腰にも届くかと思われる髪は、どれだけ櫛を入れても艶を増さない。それはあやめががヒトではないせいか否かは稜子には判らなかったが、特に気にしなかった。髪を梳き、時々一房を手にとっては、指の間からさらさらと零れていく感触を楽しむ。
「ねえ、結っちゃっていい?」
「え……」
「変なふうにはしないから。ね?」
 拒否する意思もないあやめは、ただ稜子にされるがままだ。
「どんな感じがいいかな……。これだけ長いと、三つ編みとかやりがいありそうだよね。ポニーテールとかツインテールは頭重くなっちゃうかな……」
 ああでもないこうでもないと、真剣な表情で唸る稜子を、あやめはきょとんと見詰める。その表情からは、彼女が何を思っているかは量れない。
「ん?」
「あっ……」
 その視線に気付いたのか、稜子がふと首を転じた。驚いたあやめはびくりと肩を揺らすが、肩に手を置かれて顔を上げる。
「だーいじょうぶだって! 言ったでしょ? 変なふうにしないって」
 何かを勘違いしているらしく、そう言って破顔する。見る者の毒気を抜き、なんとなく笑い返してしまう引力を持った稜子の笑みだ。これを見て無表情でいられる者は、まだ魔王こと空目しかいない。(俊也も亜紀も、見た瞬間に脱力したので)
「うんと可愛くして、魔王さま驚かせようねっ!」
 何故そこで空目が出てくるのかは判らなかったが、その笑顔につられるように、あやめはぎこちなく笑って見せた。