山本は額に浮き出た汗を拭った。
 暑い。とにかく暑い。蝉たちはここぞとばかりに大合唱をし、最早何と鳴いているのか判らなくなっている。空は清々しいほどに快晴。あの青に吸い込まれていく白い軌跡を思い描いて、山本はなんだか心が躍るのを感じた。
(あーあ、早く野球してぇなー)
「山本さーん!」
 と、聞き知った声に呼ばれて振り向く。その先で、思った通りの人物が手を振りながらぴょこぴょこ飛び跳ねていた。山本は軽く面食らう。
「ハル」
 今回は緑中の制服のままであるところを見ると、ハルは学校が終わってまっすぐここに来たらしかった。並盛中の風紀委員を知る山本は、毎度毎度よく無傷でここまで辿り着けるものだと感心してしまう。彼らが女だからという理由でハルの侵入を見逃すとは到底思えないのだが。
「えへへ、こんにちは。ツナさんは一緒ではないのですか?」
 挨拶もそこそこに、ハルはここにはいない相手を探して首を巡らせた。その一生懸命さに微笑ましくなって、山本は少し笑う。
「ああ、獄寺と一緒にちょっと先生に呼ばれてる。もうすぐ来るんじゃねーかな」
「そうですか、それじゃあここで待ってれば会えますね!」
「多分な。……ところで、なんでそんなトコにいんだ?」
「はひ?」
 ハルは不思議そうに小首を傾げたが、そうしたいのは山本の方だ。
 ハルの背後ではなみなみと水を湛えたプールが空の青を映し、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。それだけなら何のことはない。しかし問題は、彼女がこちらとプールを隔てる金網の中にいることであった。しかも裸足。水に濡れているところを見ると、さっきまでプールの水に浸していたらしい。張り巡らされた金網と扉にかけられた鉄の錠前があるとはいえ侵入する手立てがまったくないわけではなかったが、それにしてもあり得ない。まず、他校生のくせに他校のプールサイドで堂々と納涼している辺りが。
 ホント面白ェやつだよなあ。山本は苦笑する。
「見付かったら怒られんじゃね?」
「大丈夫です! 見付からなければいいんですから」
「そりゃそーだけどよー」
 名門私立中に通う生徒がそれでいいのか。この場に綱吉か獄寺がいれば、彼らは間違いなくそう突っ込んだであろう。しかし相手が山本であったために、幸か不幸か無言のままに流される。
「暑い日はやっぱりプールに限りますよねえ」
「泳ぐのか?」
 ハルならやりかねない。むしろ既に制服の下に身に付けていたとしてもおかしくはなかった。けれどハルは笑って否定する。
「まさか。足をつけるだけですよ」
「ははっ、気持ち良さそーだな」
 何よりそのほんのり濡れた白く細い脚が眩しい。キレーな脚してんなー。山本はぼんやり思った。
「それじゃあ山本さんも入ってきたらどうですか」
 ささどーぞ遠慮なく!
 いつの間にか入ることにされているらしい。山本がちらりと時計に目を走らせると、部活の開始時間にはまだ大分余裕があった。暫し考えた結果、少しだけならとハルの誘いに乗ることにする。
「よ、と」
 金網に足をかけてあっという間にその天辺まで上ると、山本は躊躇なく手を離して飛び降りた。彼女に倣って靴を脱ぐ。解放感と同時に足裏を焼かれるような暑さを感じたが、慣れてしまえば歩けないことはない。ぺたぺた歩いてハルの傍らに座り込んだ。脱いでしまうわけにもいかないので、限界までズボンの裾をまくって両足を差し入れる。
 さあっと風が吹けば、水面を小さな波が走り二人の黒髪を躍らせた。強くもなく弱くもなく、ぬるくも冷たくもない風を頬に受け、彼らは目を閉じたまま笑う。
「プール日和ですねえ」
「そーだなあ」
 常に近くにあった喧騒が、今は不思議と遠く感じられる。聞こえるのは風と波、そして鳥たちの歌ばかり。
 それはまるで、元いた世界から切り離されてしまった感覚。
 ハルは足をばたつかせ、制服が濡れるのも構わず小さな飛沫を上げてはしゃいでいる。
「おい、いいのか? 制服濡れるぞ」
「あ、すみません! 山本さんにかかっちゃいましたか?」
「いや俺は別にいいんだけどよ」
 確かに少しかかって冷たかったけれど。
「泳ぎたいですねえ」
 話しかけているような口調なのに、どこか独り言めいてぽつりと落とされる。きらきらと絶え間なく光を反射される水面を見詰め、ハルは目を細めるように笑った。
 求めるような、焦がれているようなその眼差しにどうしてか不安を覚え、山本は少し慌てる。

 ――――人魚姫。

 ふっと浮かんできたイメージ。
「……駄目だからな?」
「判ってますよう」
 ハルが笑う。山本は脳裡をよぎったものを忘れるため、軽く首を振った。
(どうかしてるって)
 いつも溌剌として時に暴走さえ起こすハルに、あの悲劇のヒロインを一瞬でも重ね合わせてしまうなんて。
(……知ってるから、かもしれねえな)
 山本は苦く思う。重なる筈のない像が重なってしまったその理由。
 知っているからだ。ハルが執心する彼の、本当の想い人を。彼が彼女を想い続ける限り、ハルの恋は叶わない。
(もしツナにフラれたら、ハルは)
 消えてしまうのだろうか、自分たちの前から? ――そんな未来は、酷くつまらないもののように思えた。
 山本にとって、綱吉も京子もハルもそれぞれベクトルは違えども友達には変わりない。みんな一緒に、これからも何だかんだでつるんでいけたらいいと思う。けれど誰かが想いを遂げるためには、誰かが想いを諦めなければならないのだ。山本は失恋を経験したことはなかったけれど、あんなに一生懸命な想いが叶えられなかったときの痛みを想像することくらいは出来る。その上でハルに、綱吉からフラれた後も会いに来いというのは、とても残酷なことではないだろうか。
「綺麗ですねえ、泡」
「、へ?」
 ハルの声で我に帰る。柄にもなく考え事をしていたらしく、何だか自分が酷くマヌケに思えた。
「プールの中から見るともっと綺麗ですよ。キラキラして、宝石みたい」
 そんな山本の心境など知りもせず、ハルは自分の足が弾く飛沫を見詰めている。ああやめてくれ、そんな目をするのは。
「ハルは消えないよな」
 咄嗟に口をついて出たセリフに、しまったと口を押さえてももう遅い。ハルはきょとんと目を瞬かせ、不思議そうにこちらを見た。促すように見詰められても、山本はどう説明していいか解らない。何と言えばいいのだろう。この、降って沸くように生じた不安を。
(うわ、ぜってーイタイやつだと思われた)
 どーすっかなあと、慌てつつどこかのんびりと構える山本に、ハルはああと合点が行ったように頷いた。
「人魚姫ですか」
「え」
 言い当てられ、思わずハルを呆けたように見詰めてしまう。
「はひ、違いましたか?」
「い、いや、その、なんつーか、えっと」
「山本さん」
 取り繕いはハル自身の声に遮られた。静かなのに、有無を言わせない声だ。たとえ一瞬であろうとも、山本が気圧されるほどの。
「あんまり、ハルをナメないでください」
 ハルは山本をまっすぐ見詰め、びしりと指を突きつけた。その口許には笑みさえ浮かべて。それから、眼を丸くして息を詰める山本へにこりと微笑んでみせた。
 ――――ああ。山本は思う。直感した。
(絶対勝てねーなこりゃ)
 そしてそれは恐らく事実だろう。脳裡にちらついていた人魚姫のイメージなど、あっという間に吹き飛んでしまった。山本は、――綱吉でさえ、ハルには勝てない。
 誰に何を言われようと、彼女の想いはそんな外的要因に左右されないだろうことが解ってしまった。叶わなかった慕情を燻らせたままにするか昇華させてしまうかは、ハル自身が決める。外野があれこれ気を揉んでいたって無意味なのだ。
(すごいやつに好かれたなあ、ツナ)
 呆れか感心か、自分でもよく解らないまま思う。ただハルらしいと思った。
「悪かった」
 山本は苦笑して両手を上げた。降参のポーズである。
「解ればいいんです」
 ハルは満足そうに、薄い胸を反らして笑う。山本は敵わないと首を振った。
 ハルはハルであって人魚姫ではない。あの、切なくも儚い物語の美しいヒロインのようなあっさりとした綺麗な終わりは来ない。ハルの恋の終わりは、多分もっとみっともなくて未練がましく、暗鬱で惨めで悲況で、それでもきっとどこか爽快なものだ。それでいいと思う。どんなに泣いて落ち込んでも、消えないでいてさえくれれば慰めることが出来る。重く暗く沈んだ気持ちを引っ張り上げるための手助けくらいはしてやれる。
 そのくらいの気概なら、自分を含めたハルを知る者たちは、みんな持っているつもりだから。

 

 

「――――ええっちょっ山本! ハル!? そんなとこで二人して何やってんの!?」
「げげっ、アホ女!」
 素っ頓狂な声に、二人は金網の外を振り返った。そこには、目を大きく丸く見開いた綱吉と、嫌そうに顔を顰めた獄寺がそろってこちらを見ている。
「ツナさん!」
 パッと顔を輝かせて、ハルは嬉々と二人に駆け寄った。ちなみに、自称右腕の存在は目に入っていないらしい。
「十代目に近付くんじゃねー!!」
「何ですかもう! ハルとツナさんの逢瀬を邪魔しないでくださいっ!!」
「こっちのセリフだアホ! とっとと失せろ!!」
「ハルはアホじゃありません!!」
「山本もハルも早く出てきなよ、先生たちに見付かったら大変だって!」
「おー、そーだなー」
 慌てたように促してくる綱吉に、山本は鷹揚に応じる。しかしちらりと時計を見て、ハッと顔色を変えた。
「やべっ、部活! 遅刻する!!」
 慌てて立ち上がると、来たときと同じように俊敏な動きで金網によじ登る。すとんと軽い動作で飛び降りて、挨拶もそこそこに駆け出した。
「じゃーなツナ、獄寺、ハル! 俺部活だから!!」
「あ、うん、気を付けろよー!」
「がんばってくださいねー!」
 綱吉とハルの声援を背中に受け、山本は振り返らずに手を振る。
 さっきまで遠くに感じていた喧騒が近くなった。なんとなく戻ってきたという感覚。まるで束の間夢を見ていたような。
 加速していく足につられて、プールサイドの中にいた記憶が薄れていく。人魚姫のイメージも、不安も焦りも、これからの部活の事柄に塗り替えられる。もう既に山本の頭には、プールサイドでハルと何か話をしたくらいしか残っていなかった。
 ちらりと一瞬だけ後ろを振り返る。三人の姿はもう見えなかったが、ハルはツナと帰れたらいい。なんとなくそれだけを思った。

 

 

人魚の夢は泡沫に