『…………まるで、蛍に惑わされたようだ』

 

 初めて出逢った日のことを覚えている。そして彼が呟いたあの言葉も。
 あのひとは、きっともうとっくに忘れてしまっているだろうけれど。

 

 

 

 

 

 風が髪を撫でる。ぽかぽかと気持ちのいい温かさに、懐かしいと咄嗟に思った。自分はこれを知っている。思い出せないほど遠い昔、まだ父から命を狙われていなかった頃、僅かな時間を惜しむように惜しみなく与えられたそれ。何だったのかはもう解らない。正体を知りたいとも、特に思わなかった。
 優しい誰かの声が聞こえたような気がして、ほたるは薄っすらと目を開けた。いつもよりさらに回転が遅くなっている頭で、暫しぼんやりする。そこここに根強く残る眠気に、やがて一つの結論に思い至った。
(あれ? 俺寝てた?)
 陽は記憶にあるものより傾いていたし、この部屋に腰を下ろしてから今までの記憶がすっぱり抜けている。
(変な夢見なかったし、よく寝たよく寝た)
 ふわわ、と大欠伸をした。
(なんで眠れたんだろ………………………………………………まあいいや)
 今夜からはまたぐっすり眠れるだろうと、根拠もなくそう思う。緩やかに髪を撫でる風に、再び瞼が重くなってくるのを感じて静かに深く息を吸った。目を瞑って柱に寄りかかると、視覚が遮断されたせいでより敏感になった聴覚が風の中に小さな声を聞き分ける。
(…………?)
 何となく興味をそそられて、ほたるは重い腰を上げるとその声の元へふらふらと歩き出した。

 

 

「ねえ、それ何の歌?」
「きゅあっ!?」
 声の主はあっさりと見付かった。蛍が声をかけると、彼の接近に気付いていなかったゆやは大袈裟なほど肩を揺らしてしまう。
「ねえ、何の歌?」
「ほ、ほたるさん! 聴いてたんですか!?」
 かああっとゆやの頬が朱に染まるが、ほたるは悪びれもせず、
「聞こえた」
 で、と続ける。
「何の歌?」
 答えてもらうまで、ずっと同じ質問を繰り替えすつもりらしかった。
「……昔、私が小さかった頃、兄様が歌ってくれたんです。兄様が小さい時も、母様によく歌ってもらったからって」
 まだ幼く、世界のすべてが兄で作られていた頃。両親は病で死んだと聞かされていた。親を知らないゆやは、「小さい頃の兄様」をよく羨んだものだった。
 そこで、はたと気が付く。
「と、いうことは壬生の歌ってことですよね? ほたるさんは知ってましたか?」
「知らないけど……多分、知ってる。覚えてないけど」
「え?」
 独特な思考回路を持っているほたるとの会話は、いつも噛み合わない。言い方も独特で、ゆやはたまに彼が何を言いたいのか掴めない時があった。
「久し振りによく眠れたし、変な夢も見なかったし」
「ほたるさん、最近眠れてなかったんですか?」
「眠っても何か変な夢見るから、寝た気がしない。でもさっきはよく眠れた」
「え、それじゃあ私、ほたるさんの邪魔しちゃったんですね。すみません! あの、私はもう向こう行くんで、どうぞ心行くまでお休みください!!」
 折角の睡眠時間を邪魔してしまったと、ゆやは青くなった。いくらなんでもそれで殺されるとは思っていないが、自分が同じ立場ならやはりいい気はしないと思う。それ程大きな声で歌っていたつもりはなかったが、恐らくほたるは耳もいいのだろう。様々な感覚が鋭くなければ今までの激しい戦いの中にありながら生き残れる筈がないのだ。
「うんそうする」
 そう言うほたるは、別段気を害している様子はない。それどころか、よいしょと当然のようにゆやの膝に頭を預けた。
「えっ……ちょっ、ほ、ほたるさんっ!?」
 断りも無く膝を枕にされたゆやが戸惑って声を上げる。
「ん?」
「あの、寝るんじゃないんですか?」
「うん。オヤスミ」
「そっ、そーじゃなくて!」
 何と言ったらいいか言葉を探しあぐねていると、じいっとこちらを見詰めてくる無遠慮な瞳に出会った。瞬き一つないそれに、ゆやは気圧される。
「………………な、なんでしょう?」
「子守唄。歌ってくれないの?」
「わっ、私がですか!?」
「他に誰かいる?」
「駄目ですよそんな!! 私音痴ですから!」
「でもさっきはよく眠れたし」
「けど、」
「眠いんだから早くして」
 それが人に物を頼む態度か。
 そうツッコんでやろうかとも思ったのだが、既にほたるは目を閉じて眠る体制に入っているし、最近ずっと寝れなかったという言葉が頭に蘇る。眠いのに眠れないことはつらい。いくら人間というカテゴリーから遺脱しているように見えるこの漢でも、そんな原始的な欲求は普通の人と変わらない筈だ。
 ゆやは心を決めて息を吸う。眠りの妨げにならないよう、静かにそっと記憶にある音をなぞった。