その異変にいち早く気付いたのはアキラだった。目の見えない彼は常人よりも五感が鋭い。意識しなくとも、漂ってくる臭気や気配が距離や状態を把握できるのだ。町中で歩いていても人間や障害物にぶつかったりしないのはそのせいである。
「おはようございます、アキラさん」
「おはようございます、ゆやさん」
 おや、と最初に思った。ゆやの周囲の温度が通常よりもやや高く感じられる。聞こえてくる呼吸や心音も、幾分早いようだ。
「ゆやさん? どこか具合でも悪いのですか?」
「え? ……そう言われてみれば、なんだか少し頭が重いような」
 本人に自覚はないらしい。この少女は、他人に気を遣いすぎて自分のことが疎かになってしまうきらいがある。今日は特に気を付けておこうと、アキラはこっそり思った。
「風邪ですか? あまり無理をなさってはいけませんよ」
「はい、ありがとうございま――……」
 ぐらりと口調が歪んでゆやの体が傾く。
「ゆやさん!!」
 アキラは慌てて手を伸ばし寸でのところで抱き留めた。
「あ、す、すみません。急に眩暈が」
 もう大丈夫ですからと、立ち上がろうとするゆやを押し留める。このまま一人で歩かせたらまた何処かで倒れるのがオチだ。
「いいえ、熱があるじゃないですか。今灯を呼んできますから……」
「何やってんだあ? お前ら」
 喉太い声が聞こえ、アキラは眉を顰める。
「梵天丸……」
「オイオイ、いちゃつくんなら余所でやりな。何もこんな廊下のど真ん中でおっぱじめなくても……」
「何を始めろというのですか。馬鹿なことを言っていないで、あなたは灯を呼んできてください」
 つっけんどんにそう言うと、さすがの梵天丸でも何か感じるものがあったらしい。からかうようにニタニタ笑っていた顔をふと引き締めた。
「ゆやちゃん、どっか悪いのか?」
「熱があるようなんです。私はゆやさんを部屋に運びますから、灯を呼んできてください」
「よし、待ってろよ。すぐ呼んできてやる」
「頼みましたよ」
 アキラは念を押して、既にぐったりして応答のないゆやを抱きかかえた。

 

***

 

「ゆやちゃんの病名は……間違いなく風邪ね」
「そんなことは判ってます。訊いているのはそんなことじゃありません」
 まっ可愛くない子! と灯はシナを作って非難するが、アキラは反抗的につーんと顔を背ける。いつもならここで灯のアキラいびりが始まるのだが、今回はそれよりもゆやの病状の見立てが優先されたようだった。
「そんな高熱でもないけど、低くもないわ。でも内臓とかに異常はないみたいだし、暫く様子を見ましょ」
「下僕のくせに、風邪引くのは一丁前かよ」
「狂……」
「ケッ」
 労わりもしない狂を、梵天丸が窘める。狂の方でもあの威勢の良い声が返ってこないのがつまらないのか、それ以上の憎まれ口は叩かずに黙り込んでしまった。
「皆さん、ご迷惑おかけします……」
 いつもより幾分弱々しい声でゆやが言う。顔は赤く、常の溌剌さはすっかりなりを潜めていた。
 灯は優しく前髪を掻き分けてやる。
「なーに言ってんのよ。変な気ィ遣わずに、病人は大人しく寝てればいいのっ。それより、汗ベトベトで気持ち悪くない? 灯ちゃんが拭いてあげましょーか?」
「あっ、灯っ!! あああああなたこそ何を言ってるんですか何をっ!!」
 かあっと頬を染めてアキラが怒鳴った。
「うっさいわねアキラ、そんなに怒鳴ったらゆやちゃんの頭に響くでしょ。いーじゃない、女の子同士」
「あなたは漢でしょう!?」
「うるさいっつってんでしょ!! いい加減にその口閉じないと、あんたあのことバラすわよっ!?」
「くっ……! 相変わらず卑怯な……!!」
「オイオイ、病人の前でぎゃあぎゃあ喚いてんじゃねえよ」
 見兼ねた梵天丸が間に入り、二人を引き離す。うるさくてすまねえな、とゆやに謝った。
「一晩、安静にしてりゃ治るんじゃねえか?」
 狂やほたる、梵天丸やサスケは元より風邪というものを引いた経験がなく、アキラや灯や幸村や紅虎も病にかからなくなって久しい。そもそも体の構造が常人を遺脱して丈夫なので、一日休めば大抵の病は治るし疲れは取れてしまうのだ。梵天丸は顎を掻きながら、アキラが風邪でぶっ倒れた時はどうしたんだっけか、と記憶を遡る。
「風邪は引き始めが肝心よ! 安静にすることも大事だけど、消化が良くて滋養のあるもの食べさせてあげなきゃ。そうそう、熱があるんだから冷やしてあげることも必要ね」
「それなら、熱冷ましは私が」
 灯の言葉にアキラが立ち上がった。
「鎌之助に、何かお粥でも作ってもらうように頼もうか」
 幸村が言うと、屋根裏に在った気配が遠ざかる。
「そ、そんなっ! 十勇士の方にまでご迷惑をかけるわけには……!」
 驚いたゆやは、次の瞬間にゴホゴホと激しく咳き込んでしまった。
「いいっていいって。いつもゆやさんにはいろいろお世話になってるし、たまには恩返しくらいさせてよ。それにね、鎌之助のお粥は美味しいんだよ〜」
「す、すみません……」
「ありがとう、の方が僕的には嬉しいんだけどな」
 にっこりと微笑む幸村につられるようにゆやも微笑んで、掠れた声でありがとうございますと囁いた。
 満足そうに笑った幸村は、今度はサスケの方に振り向いた。
「サスケは僕と買い物に行こう」
「薬でも買いに行くのか?」
「ううん、買うのはリンゴ」
「リンゴ?」
 サスケはきょとんと目を瞬く。
「風邪の時は摩り下ろしリンゴがいいんだよ」
「桃もいいんとちゃう?」
 口を挟んだのは紅虎だ。
「桃もいーよねー。あ、トラさんも来る?」
「ったり前やがな!! ゆやはんが苦しんどるっちゅーのに、じっとなんかしてられるかい!」
 紅虎は無駄に力説して立ち上がる。三人は連れ立って宿を後にした。
「ゆやさん、氷水で冷やした布です」
 戻ってきたアキラが言って、ひんやりと気持ちいい冷たさの布がゆやの額を覆う。
「どうですか? 冷たすぎませんか?」
「気持ちいいですー……」
「それは良かった」
 ゆやがふにゃと顔を緩ませると、アキラはほっとしたように微笑んだ。
「ホラ、あたしたちも隣行きましょ。周りがうるさかったらゆやちゃんが休めないじゃない」
「あなたがそれを言いますか」
「……よく言うぜ。さっきまで一番うるさかったくせによ」
「あァん!?」
 残った漢たちはそんなやり取りを繰り返しながら、のそのそと部屋を出て行く。
「それじゃあゆやちゃん、あたしたち隣にいるから、何か用あったら呼んでね」
「はい、ありがとうございます」
 おやすみ〜と灯が言い、静かに戸が閉められた。

 

 

***

 

 

 隣の部屋の喧騒がやけに遠く感じる。この部屋だけ世界と切り離されてしまったような、大きな声で叫んでも誰も来てくれないような、そんな気がした。そこから連想するように、兄を亡くした後に風邪を引いたことを思い出す。
 世話をしてくれる人も心配してくれる人もなく、ただ宿で用意された布団に包まって震えた夜。暖かく優しい、あの節くれ立った大きな手をどんなに望んでも与えられることはなく、大好きなあの人はもうこの世の何処にもおらず、自分はとうとう本当の一人ぼっちになってしまったのだという実感が急に押し寄せてきて、溢れる涙を止めることが出来なかった。
(兄様ぁ……)
 苦しい。熱い。寒い。寂しい。
 何もいらないよ。何もしなくていいよ。
 傍にいてくれたら、ただそれだけでいいのに――――

 

「泣いてるの?」

 

 抑揚のない声が間近で聞こえて、ゆやはハッと目を開けた。
「あ、起きた」
 しゃがんだままこちらを覗き込んでくるほたると目が合う。
「ほた……る、さん?」
 なんでこの人がここにと思うより先に、ほたるはすくっと立ち上がった。
「待ってて。灯ちゃん呼んでくる」
「ぁっ…………」
 スタスタ戸の方へ歩き出すほたるの足首を、ゆやは反射的に掴んでしまう。
「なに?」
 ほたるは足首に絡みついた手を振り払うことなく、足を止めて振り返った。
 ゆやは身を起こし、掠れた声で精一杯に言葉を紡ぐ。
「なにも、しなくていい、から」
 寂しいのは嫌だ。寂しいのは怖い。
「うん」
「そばにいて、……ください」
 今だけだから。他には何も望まないから。
「うん、わかった」
 拙い囁きは、それでも充分ほたるに届いたらしい。こっくり頷くと、ストンとゆやの枕もとに腰を下ろした。駄目もとのつもりで言ったゆやはほっと顔を緩ませる。気が大きくなったのか、我が儘がまた一つ零れた。
「あの」
「ん?」
「手、つないでてもらってもいいですか……?」
「うん。いいよそれくらい」
 何でもないように与えられた手に、きゅっと指先を絡める。炎を操るくせに低い漢の体温が気持ちよかった。
「ありがとうございます、ほたるさん」
「うん」
 オヤスミという言葉と共に優しく頭を撫でる手を感じて、ゆやは安心したようにふと笑う。そしてその呼吸は静かにゆっくりと、眠っている時のそれへと変わっていった。

 

 

「ゆやは〜ん、桃剥けたで〜……って、ああ――――ッ! ほっ、ほたるはん!? あんさん何してんねん!!」
「ゆやが起きるから静かにして」
 思わず声を張り上げてしまった紅虎は、慌てて自分の口を押さえる。
(ほたるっ! ゆやさんが風邪で動けないのをいいことにっ!!)
 ボソボソと小声ながら怒気を籠めてアキラが言い、
(ぬぁにしてんのよあんたは!? ゆやちゃんが起きたら呼びに来いって言ったじゃない!!)
 灯も眉を吊り上げた。
(呼びに行こうとしたら、ゆやが行かないでって言うから)
(((嘘付けえええええっ!!)))
(いやホント。ホントだって)
(まあまあ、風邪引いてる時は、誰だって人肌恋しくなるものだよ)
 幸村がとりなすように言う。
(そーなのか?)
 風邪を引いた経験のないサスケは、いまいちピンとこないらしい。けれど確かに、ゆやの手はしっかりとほたるのそれを握っていた。
(そーなの。じゃあ、ゆやさんが起きるまで、僕らもここで寝かせてもおっか)
(いいのかよ……)
(そっ、そーですよ! 女性が寝ている部屋に無断で入るだけでも失礼だというのに!!)
(なら、アキラだけ別の部屋行けばいいじゃない)
(ちょいと狭っ苦しいけど、まあしゃーねえな)
 何だかんだ言いつつ、それぞれ手近な場所に腰を下ろす。最後まで逡巡していたアキラも、結局は戸の近くに座り込んだ。
 目覚めたゆやは怒るかもしれないが、尤もらしい理由はいくらでも作れる。否、今の彼女なら「だって心配したんだもん」の一言で黙り込んでしまうかもしれなかった。
(あら、狂はいないの? 灯たんつまんなーい)
(ったく、あいつも大概に意地っ張りっつーか、頑固っつーか。素直じゃねえのは確かなんだけどよォ)
(ああっ! コラてめえほたるっ!! どさくさに紛れて何添い寝しようとしてんだ!!)
(えー、だって寝るんでしょ? 手が放せないんだから仕方ないじゃん。添い寝くらいで騒がないでよね)
 繋がった手はそのままに、ほたるは掛け布団の上に乗り上げる。
(オヤスミ)
 もう一度呟いて、目を閉じた。

 

 

***

 

 

 翌朝、まだ日が昇りきらない早朝に目を覚ましたゆやは、危うく悲鳴を上げそうになって慌てて口許を手で押さえた。
 眼に飛び込んできたのは、すぐ隣に寄り添うようにして眠るほたる。
(手、ずっと握っててくれたんだ……)
 少し視線を転じれば、何故か隣の大部屋でなくこの部屋に勢ぞろいしている漢たち。狭いスペースでそれぞれ窮屈そうに体を折り曲げ、それでも安らかな寝息を立てている。僅かに開いた戸の隙間が気になったけれど、パッと見て取られた物はないし、何より彼らを起こさぬよう忍び込むのは、誰から見ても難しいだろう。
(みんな、心配してくれたのかしら)
 うるさい自分がいないからハメをはずしすぎているのではないかと、少し気にかかっていたのだが、そんな心配は杞憂に終わったようだった。
「……ありがとうございます」
 誰に言うともなく、けれどここにいる漢たちに向けて、ゆやはそっと呟いた。
 繋がれたままのほたるの手がピクリと動いたような気がしたけれど、規則正しい呼吸音は寝ている人間特有のそれだ。きゅっとその手を握り直し、ゆやは再び目を閉じる。
 嫌な夢も怖い夢も見なかったのは、彼らが傍で寝てくれたから。屈強な漢たち相手では、悪夢すら裸足で逃げ出すに違いない。
 身体の調子がまだ全快でないのにこんなに安らいだ気持ちでいられるのはきっと、彼らがどれだけこの身を大切にしてくれているかを実感できたからで。

 

「…………おやすみなさい」

 まだ少し掠れた声に答えたのは、狭い部屋に静かに響く寝息たちであった。

 

 

風邪引きさんに必要なもの