水鏡に映し出された景色は次第にその鮮明さを薄れさせ、終いには何事もなかったかのようにただの水面に戻ってしまった。それでも尚、小さな波が揺れる様をジッと見詰めていた女は、傍らの人物に手を突いて深く頭を垂れた。古来より美人の象徴とされる黒く長い髪が肩口から零れ、サラリと彼女の頬を撫でる。
「有難うございました、村正様。本当に、何とお礼を申し上げたら良いのか……」
 恐縮しきったその言葉に、村正は優しく微笑んで面を上げるよう促した。
「いいえ、大したことなどしておりません。私にお手伝いできることがあれば、何なりとおっしゃってください」
 女はもう一度深く礼をした後、ゆっくりと顔を上げる。袖口で口許を隠しながら小さくため息を吐いた。
「過ぎた真似だということは、重々承知しておりました。けれど、どうしても見ていられなかったのです。…………いいえ、見てみたかったのですわ。あの子が他人との交わりによって変わっていく様を」
 思いを馳せるのは、残してしまった自らの子供。もう遠い過去のこと。変わっていないようで変わってきていた息子に、思わず頬が緩んだ。微笑ましかったが、だからといって己の中に在る罪悪感が消えるわけもない。
「感情の起伏が殆どない子供でした。手がかからなくて良いと言えばそれまでですけれど、いつどんな時でも眼は空虚で、私は終ぞ、あの子が考えていることを理解してやることができなかった」
 寂しいのか悲しいのか憎らしいのか、それは本人さえ判っていないようだった。何を言われてもされても涼しい顔をしているくせに技は荒々しくて、他人からはあの無表情の下に無数の短い導火線を抱え込んでいるのだと恐れられて避けられた。
「あのひとに娶られあの子を産んだこと、今でも後悔はしていません。けれど思ってしまうのです。もっと違うところで違うふうに生まれていたら、きっと何か違ったのではないだろうかと。もしかしたら、子供らしく無邪気に声を上げて笑っているあの子が見れたかもしれないと」
 詮なきことです、とか細く呟く。
「愛していたのですね、螢惑を」
 さっきまで黙って耳を傾けていた村正の言葉に、女の顔が泣きそうに歪む。目尻に涙を溜め、それでも気丈に笑ってみせた。
「あの子には忘れられてしまっていたようです。唯一話しかけられる夢で名を呼んでも、最後まで気付いてもらえませんでした。無理もありませんわ。傍にいた時間など、ほんの僅かでしたから」
 泣き笑いのような歪な表情で、それにと続ける。
「未来ある者にとって、過去は消えていくモノです。過去未来あの子の妨げになってしまうわけにはまいりませんもの」
 死んだ者と生きている者の世界は違いすぎるのだ。死人があまりにかかわりすぎると、生者をこちらの世界に連れ込んでしまう。忘れられてしまうことは哀しくてつらいことだけれど、それだけはしたくない。してはならないのだと強く思う。
 俯いてしまった女の肩に、村正の手が労わるようにそっと触れた。
「過去があるから現在があり、そうして未来へ続いているのですよ」
 たとえそれがどんなに厭わしくても、本当に切り捨ててしまうことなど出来はしない。厭わしいと思うのは、厭わしくないと思うものを知ったからだ。そしてその判断基準は過去にこそ作られる。いい加減に認めなくてはならないのだ、誰も彼も。
「そして彼は過去に眼を背けるほど、弱くも愚かでもない。彼はもう、以前のような孤独ではなくなりました。背を預けられる戦友の存在も、守るべきひとの温かさも、ちゃんと知っています。彼は貴女を忘れてしまったのかもしれません。それでも、貴女は彼の一部として生き続ける。彼が彼であるために不可欠なものの一つとして」
 女が顔を上げる。碧色の瞳が村正を見詰めた。

 

「大丈夫ですよ。――――帆流ほたる様」

 

 ほろり、と透明な雫が彼女の頬を濡らす。
 息子が同じ名前で呼ばれていることが嬉しかった。自らそう名乗ったのか、それとも誰かが名前から付けたのかは判らない。けれどそんなことはどうでもよかった。それが彼の母の名だと知っている者はいないだろう。誰かが意図したわけでは決してないのだ。それでもいい。だって自分だけは知っている。もう二度とあいまみえることはなくとも、この限りなく必然に近い偶然の一致を抱いて永い眠りに就ける。怖い夢を見て飛び起きることも一人寝の寂しさに枕を濡らすことも、きっともうないだろうから。
「村正様……。ええ、きっと大丈夫ですわね。だってあの子は、私とあのひとの子供ですもの」
 そうは言っても、すべての心配事がなくなったわけではない。未練がましく現世を覗き見ては、あれやこれやと気を揉むのだろう。そして我慢出来なくなってしまった時は、懲りもせず夢枕に立ってしまうのだろう。信じていないわけではないのだから、これくらいの我が儘には目を瞑ってほしい。我が子の行く末を案じるのは親だけの特権だ。そしてこの、血の繋がりを持たぬ鬼の子の親も、きっとそう思っているのだろうから。
「それにしても、ゆやさん――でしたかしら? ――は、なかなかに手ごわい方ですのね」
 息子によく似た色の髪を持つ少女を思い出す。好きな女の子が出来たのは喜ばしいことだが、母親としては何だか複雑だ。村正が笑った。恐らく、こちらの気持ちなどとうに見透かされてしまっているのだろう。
「それがゆやさんの良いところでもあるのですよ」
「見ているこちらが焦れてしまいそう。村正様は、誰が彼女の心を射止めると思われますか?」
「最有力候補は、やはり狂ではないでしょうか。共に旅をしていた時間も一番長いですし、ゆやさんの信頼を一番に背負っている」
「あら、想いは時間ではありませんわ。信頼はこれから築いていけばいいのですし。あの子は好き嫌いが激しいですが、その分、好きなものを好きということも吝かではありません。女は、そういう態度のハッキリした殿方に魅かれますのよ」
「それを言われてしまうと返す言葉がありませんね。サトリのチカラに頼らず、狂には小さい頃からもっと喋らせておくべきでした。未だに、肝心な一言が足りないのですから」
「あとは盲目の青年に忍の少年、徳川のご子息に……シャーマンの方も、満更ではなさそうでしたわ。ああそうそう、あの辰伶も」
「敵は身内にあり、ですか」
「賑やかで楽しそうですわ」
 他人事だからこそ言いたい放題だ。当人たちが聞けば渋面になりそうな話題で盛り上がる。
 恋人たちの逢瀬が死合いに、思慕を込めた恋文が果たし状に摩り替わるこの戦国の世で、恋をすることは本当に難しい。求めた相手と添い遂げることはもっと。生きていれば経験者として何らかの助言や手助けは出来たかもしれないが、そうもいかない。だからこそ願う。
 彼らが紡ぐ恋は、どうか幸せなものであってほしいと。
「孫の顔を、早く見せてほしいものですね」
「ええ、是非とも」
 それはきっと、きらきらしくもいとおしい未来。
 過去に取り残された二人は、暫し未来の夢に微睡んだ。