003:荒野
神楽は一人で震えていた。
何が悪い。どうしてこうなった。だって自分は、ただ少し遠くまで散歩に出かけただけで。
その問いに答えるものはない。ただ明確なのは、狂ったように紅く塗り潰されたそれは、自らの手で作り上げられたのだと。目の前にあるのはその証拠。否定したくとも出来ない、確固たる現実。
ガチガチと歯の根が合わない。戦慄く口からは意味を成さない絶叫が迸った。「アア、あ、あああ、……あああああああああああ――――――――――っ」
神楽は知らなかったが、ふと何気なく思い立って足を運んだそこは別種族の天人たちの戦場だったのだ。バッタリと出会ってしまった相手は神楽が夜兎だと知ると、敵が寄越した暗殺兵だと勘違いした。違うのだと、弁解する暇は与えられなかった。身に覚えのない怨嗟が吐き出されると同時に巨大な斧が振り下ろされ、殺されると思った瞬間に、それは起きた。ほんの一瞬だった。
咄嗟に頭を庇うように突き出した手は、相手の体を貫いていた。え、と顔を上げる神楽に、赤い飛沫が土砂降りの雨のように降り注ぐ。相手の弱々しい呻き声が耳に入り、頭の中は真っ白になった。目の前の光景が夢でも冗談でもないと判ると急に怖くなり、突き出した手を引っ込めようと慌ててもがく。ぶちぶちと筋肉の千切れる音と骨が軋んで砕かれる音、その感触。それらに五感のすべてを塞ぎたくなったけれど、それも叶わない。
神楽が自らの片腕の自由を取り戻すと同時に、心臓の抉れた死体がドサッと倒れた。
抉れた肉の合間の白い骨、はみ出た赤黒い内臓だったモノ、引き千切られた神経の束、筋肉の筋、血はじわじわと地面に染み込み辺りを紅く染めていく。それは、死体というよりもただの肉だった。
神楽はそれを、ただ震えながら見詰めていた。目を逸らしたいのに逸らせない。緋色に魅せられる。何者にも冒されぬ至高の色。新しい命を生み出すため、命を明日に繋ぐため、命の終わりを告げるために流される色。ただ花のように綺麗だと思った。
思ってから、思った自分に愕然とした。がくりと足が震えてその場にしゃがみ込む。ばしゃりと音を立てた血溜まりに、さらに体を固くした。無意識に握り締めていた手を開くと、びちゃびちゃとべたつく肉の破片が地面に落ちる。びちゃりと張り付いたそれは、幼い子供が目にするにはあまりにリアルすぎてグロテスクだ。手に残る感触はまだ生温かい。
それを見て神楽は泣いた。吐き気が込み上げる。
(またころ、ころ、し、て、こわ、れちゃっ――)
脳裡に、冷たくなった愛兎の姿が鮮明に描かれた。もう二度と同じ過ちは起こすまいと、自らに誓ったのに。
だのに、だのにまた、自分は。
「……あああ、ア、……アア」
言葉が喉で痞えて、上手く外に出てくれない。だから余計に苦しくなる。もがいて、解放されようとするのに、もがけばもがくほどさらに深みにはまって、どうすることもできなくなる。周囲の光景が眼に入った。
曇天が太陽の光を遮り、昼だというのに夜のように暗い。周囲に立ち込めるのは血臭と死体の腐臭だけだ。戦争で荒らされた大地は、もう二度と草木が芽吹くことはあるまい。これからも不毛の地であり続けるだろう。黒と紅が支配するこの場所はなんて夜兎に相応しい。先祖たちが歩んできた道も、きっとこんなに黒くて紅かった。そしてこれからは自分もそんな道を。一片の光も差し込まぬ道を、永遠に歩き続けていく。それが、一族が生まれながらにして等しく背負わされた宿命だ。
(ワタシたちのせかい、は)
こんな光景がいたるところに広がっている。
(ずっと、くろとあかのまま)
漆黒と緋色で満ちている。他の色はそれに塗りつぶされて消えていくのだ。
(どこにもいけない……なにも、みえない)
色鮮やかに輝くものはすべて、視界に入った途端に紅く染められモノクロの世界に取り込まれてしまう。
その中で築かれていくであろう未来を思った。千紫万紅を許さず、いずれは黒と紅しか映さなくなっていく自分の眼を思った。緋色に染まっていく道を思った。そこを一人きりで歩く自分の影を思った。
紡がれるのは怨嗟の声。築かれる屍の山。周囲を彩る紅と黒。
その光景はあまりにも当たり前のように脳内で形作られ、神楽は耐え切れず瞼を閉じた。