040:小指の爪

 

 

「はよーん、葵ちゃん!」
「おうわぴこ。朝っぱらから元気だよな」
 急に出現したわぴこに、葵はさして驚いたふうもなくなおざりな挨拶を返した。わぴこもそれを気にすることなく、えへんと誇らしげに薄い胸を張る。
「えっへへ〜、わぴこはいっつも元気だよ!」
「そうだったな、お前はいっつも元気だったな……」
 葵は苦笑した。元気のないわぴこほど面倒なものはない。いつもは呆れるほど元気なだけに、急に物思いなどに沈まれると扱いに困ってしまうのだ。普段は遣わなくてもいい気をフル使用した挙げ句にオチは超絶どうでもいいことだったりして、大抵はただこちらが無駄に疲れただけで終わる。結局、わぴこに元気があってもなくても振り回されることは変わりないのだから、それだったら元気に笑いながら振り回してくれた方が余程マシだ。何も考えてなくてもいいからお前はとりあえず笑っとけと葵は思う。
 どれだけ突飛なことをしでかしても、フォローしてやるくらいの気概は持っているつもりだから。
「葵ちゃん、今日は午前中のバーゲンないよね。これから学校行くよね?」
「おー、まあ行ってやってもいいけどよ」
「やったあ!」
 わぴこはぴょんぴょん飛び上がって喜ぶ。そのまま踊りだしそうな勢いだ。そう思う間もなく、わぴこは「葵ちゃんといっしょ、葵ちゃんといっしょ」と周りをぐるぐる回りだす。
「オラ行くぞ。遅れるとまーた千歳がうるせえ」
「うん、ちーちゃん怒ると怖いもんね」
 そう言っている割には、わぴこに怖がっている様子は見られない。自然な流れでどちらからともなく手を繋ぐ。繋いだことに大した意味はなかったが、次の瞬間、ちくりと皮膚を刺した痛みに葵は思わず顔を顰めた。
「っつ!」
「葵ちゃん?」
「何だよわぴこ、何か刺さったぞお前ー」
「えー?」
 わぴこはきょとんと首を傾げる。開いた自分の掌を見て、葵はゲッと声を漏らした。
「お前なんで小指の爪だけこんな長いんだよ」
 綺麗に切り揃えられているわぴこの指の爪の中で、小指だけが異様に長さを持っている。
「あー、これね、ジングルベルなの!」
「はあ〜?」
「あのね、ちーちゃんが小指の爪を長く伸ばしたら願いごとが叶うよって言ってたの」
「あの女め……、わぴこにわけ解んねーこと吹き込みやがって」
 ここにはいない元凶への悪態を一通り吐いたところで、葵は皮膚に爪が刺さらぬよう注意してわぴこの手を握った。
「葵ちゃん?」
「わぴこ。教室行く前に保健室行くぞ。爪切ってやる」
「えー、でも〜」
「『でも』じゃねえ。怪我したらどーすんだ。俺は痛かったんだぞ!」
 わぴこは何でも遊びにしてしまうから、どんな思わぬ怪我が待っているか判らない。うっかり何処かに爪をひっかけ、割ったり剥がれさせてしまったりする事態になったら、誰がどう責任を取るというのだ。
「う〜、ごめんねえ葵ちゃん」
 すまなそうに謝るわぴこの頭を、葵は空いている反対側の手でぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてやる。
「わぴこのせいじゃねえよ。とにかく、まずは爪切るぞ」
「はーい」
「まったく、千歳の言うことなんか間に受けんなよなー」
 わぴこの手を引いて歩きつつ、葵が言う。今日会ったら、まずは文句を言ってやろうと心に決めた。
「でも、なんだか楽しそうだったんだもん」
 それにねと、わぴこが笑う。
「すごいんだよこのジングルベル。わぴこのお願い、もう叶っちゃったんだ」
「お願いぃ? 何だよ?」
 何かわぴこが喜ぶようなことがあったかと、葵は怪訝そうに振り返った。それにわぴこが笑みを深くする。
「今日は、葵ちゃんといっしょに学校行きたい気分だなあって!」
 葵は一瞬面食らったように目を瞬かせ、次いで脱力し、馬鹿だなあと笑いながらわぴこの頭を小突いた。
「そんなもん、爪より俺に頼めっての」
「お願いしたらいっしょに行ってくれる? これからも?」
「バーゲンとか午前安売りのない日だったらな」
「ホントホント? 約束だよっ」
「あーハイハイ」
 約束約束と繰り返すわぴこに、葵はやはりなおざりに答える。伸びすぎた爪が皮膚を引っかいたが、どこかくすぐったかった。