048:熱帯魚

 

 

 ゆらゆら揺れるそれは、とても眠い。

 

 

 

「秀ちゃん見て、お魚さんだよ」
 くいっと制服の袖を引かれ、秀一は立ち止まる。わぴこの指の先を示されるままに見た。
「綺麗だねえ」
 いつの間にか水槽にぴったり張り付いているわぴこは、感嘆のため息とともにそう漏らす。大きな水槽の中には、二、三センチ程度の小さな魚たちが色鮮やかな鰭を揺らめかせてすいすい泳いでいた。
「ああ、熱帯魚だ」
「熱帯魚? ぎょぴちゃんの仲間?」
「まあ確かに同じ淡水魚だけど、金魚は熱帯魚じゃないんだよ」
「……よく解んない」
「出身地の問題だね」
 ふうんと相槌を打ったが、わぴこはきっと理解していないだろう。それからいくらもしなうちに、わぴこはパッと何かを思いついたように秀一を振り返った。
「ねえ秀ちゃん」
「駄目だよ」
 即答である。わぴこはその柔らかそうな頬をぷうっと膨らませた。
「まだ何も言ってないよう」
「言おうとしてることくらい判るよ。熱帯魚、学校で飼いたいって言うんだろ?」
「ぴんぽーんっ」
「駄目です」
「えーっ、なんでー! わぴこ、ちゃんと面倒見れるよ!」
 素気なく言ってさっさと立ち退こうとする秀一の裾を、わぴこはがっしり掴んで動かない。
「そーゆうもんだいじゃないんだってば! 食費だって馬鹿にならないし、病気にならないための定期健診とか、いろいろお金がかかるんだ。加えて会長のあの浪費癖もあるし……。これ以上出費を増やされると、学校が立ち行かなくなっちゃうよ」
「また潰れちゃうかもってこと?」
 裾を掴んでいた手の力が緩んだ。卑怯だと思わないではなかったけれど、秀一は屈んでわぴこと目線を合わせ、諭すように続ける。
「あんまり出費が重なるとね。わぴこだって嫌だろう?」
「うん」
 わぴこはまだ未練がましく熱帯魚を見詰めていたが、やがて諦めたらしく、促すと肩を落として歩き出した。
「えらいよ、わぴこ」
「ん……」
 褒めて、葵がするように頭など優しく撫でてみるのだが、わぴこの気分が上昇する様子はない。わぴこが悲しむ様はあまり見たくなかったが、だからといって何でもかんでも言うことを聞くわけにはいかないのだ。
 あれこれとかける言葉を浮かべてみるが、どれもこの状況にしっくりこない。ぎょぴちゃんがいるからそれで我慢しろとは、どうしても言いたくなかった。そんなことを言ってもわぴこは元気になってくれないと知っている。
「熱帯魚さん見てるとね」
 急に、わぴこはぽつりと落とすように口を開いた。
「ゆらゆら揺れてて、綺麗で、なんだか眠くなっちゃいそうだったの」
 その口調こそ、どこかふわふわしていて既に眠そうだ。
「一緒にいたらきっとみんな眠くなっちゃって、そしたらみんなでお昼寝タイムとかできるかなあって思ったの」
「昼寝の時間がほしかったの?」
 秀一が口を挟むと、わぴこはううんと首を振る。
「みんなで熱帯魚さん見ながらお昼寝したかったの」
 落胆していた気持ちは大分上昇してきたらしい。隣を歩くわぴこのどこにも、もう気落ちしている様子は見られなかった。秀一はそれを確認し、ほうっと密かに安堵の息を漏らす。
「じゃあわぴこ、帰ったら昼寝しようか。葵とか会長とか呼んで」
 熱帯魚はないけど。
 そう言って笑いかけた。わぴこの表情がパッと明るくなる。
「それじゃあわぴこ、葵ちゃんとちーちゃんに声かけてくるね!」
 わぴこはすっかりその気だ。自分で言っておいてなんだが、葵はともかく千歳がこの誘いに乗る可能性は限りなく低いように思われた。そんなこと、折角楽しそうなわぴこに水を差したくはないので言わなかったが。
「あ、そうだ。ぎょぴちゃんも誘おうよ!」
 そう言うわぴこは、きっとピンクの空飛ぶ金魚以外にもゾロゾロ友達を連れてくるに違いないと思って、秀一は少し苦笑した。