051:携帯電話
「上田さん、なんなら、俺の携帯番号教えようか?」
そう言ったのは、別に何かの含みがあったからではない。ただ彼女が、ライバルである宮崎の携帯番号を登録していると知ってあんまりに驚いていたから、なんとなく言ってみただけだ。その返事が否でも応でも、どっちでも構わなかった。
確かに彼とは仲がいいとは言えなかったが、生徒会長と実行委員長という立場上、知っていればそれなりに役に立つ。だから教え合った。それだけのことである。そんなに驚かれることだろうか。
「俺だって、宮崎の番号持って歩くより、上田さんの方がずっと嬉しいよ」
周りを見回せば、ひろみや鳴海に懸想している加藤や夢乃はもちろん、丁度場に居合わせていた生徒会メンバーが、そろって顔をこちらに向けている。どれも一様に驚いたように目を丸くしていた。唯一、夏郎だけが、状況についていけないと言う顔できょとんと目を瞬かせている。
「ええと……どうしよう」
加えて、戸惑っているというより困っているらしいひろみに、とうとう鳴海は笑ってしまった。
「やっぱりガード固いなあ。上田さんって、夏郎がおひい様と呼ぶのも、それほど間違いじゃないよね」
そう言った時の彼女の表情は、恐らく当分は忘れられないだろう。
「離任式しゅーりょーおめっとさん」
パシッと軽く背中を叩かれる。振り向くと夏郎含む、見慣れた顔の執行部メンバーたちがいた。いないのは夢乃とひろみくらいなものだ。
「老けて見えるぞ知章。急に隠居のじーさんになっちまったみたいだ」
「うるさいな。余計なお世話だ」
夏郎のあっけらかんとした物言いに、鳴海は苦笑する。彼はこの数ヶ月で、鳴海たちにはまだ届かないものの、随分背が伸びていた。来年はもう金魚柄の浴衣は似合わないだろうなと思って、少し笑った。
「さっき中村と上田さんたちとも話したんだけどさ、これから俺たちだけの打ち上げしねえ? このメンバーで集まれるのは、もしかしたらこれが最後かもしれないし」
備品の整理を手伝いながら、田中が言う。彼らがここに来た用件はこれだったらしい。
「その二人は賛成だって?」
「じゃなきゃ、鳴海に言う前におじゃんになってるって」
肩を竦ませて言う加藤に、鳴海は違いないと笑う。
「そうだな、じゃあ折角だから俺も参加するか。ところで、店はもう決まってるのか?」
「まだ。一応、候補はあるんだけど」
「そうだな……あまり遠い所には行けないだろう。最近は日の入りが早くなってるし、夏郎はともかくとしても、上田さんに何かあったら困る」
「俺がともかくってどーゆう意味だよ」
「そーゆう意味だよ夏郎クン」
茶化すように言った田中に夏郎が飛び掛り、そこだけ取っ組み合いになった。じゃれ合いにしか見えないそれをとりあえず無視して、鳴海と加藤で の段取りを決める。
「…………よし、店はそこでいいな。俺が中村に伝えておこう」
「あ、ならおひいさんには俺が電話しとく」
一瞬、場がしんと静まり返った。誰もが驚き、固まって絶句する。
「こらお前、いつの間に上田さんの番号ゲットしたんだよ」
我に返った加藤が、些か乱暴に夏郎の頭を小突いた。
「この前。中村んちに行った時、話が終わったら呼んでくれって、俺の番号教えたんだ。その着信暦が残ってる」
「くそー、この羨ましいやつめ!」
「うわやめろよ、何すんだよー」
(教えてもらったわけじゃ、なかったのか)
もみくちゃにされている夏郎を見ながら知章は、妙な安堵を覚えた自分に驚く。
鳴海知章は上田ひろみに対して何の特別な感情も持っていない。それは真実だ。ならば、この胸のわだかまりは何だというのだろう。
――嫉妬? どちらに対しての?
どちらにせよお門違いも甚だしい。
(面白い……いや、不思議な人だなあ、上田さんは)
何かに卓越した才能があるわけでもなく、ただ少し古文が得意というだけの、どちらかといえば目立たない少女だというのに、近衛有理の心を開き、江藤夏郎にまで(多分彼に自覚はないだろうが)興味を抱かせている。
少し勉強ができるだけの自分などより、余程凄い人間ではないのか。
「知章ー、おひいさんたち、もうすぐでこっちくるって」
既に電話を終えたらしい夏郎が、けろりとした顔でこちらを向いていた。いつの間にか、ドタバタ騒ぎはとっくに終わっていたらしい。
「何呆けてんのお前? ボケるにはまだ早いぞ」
「……ひとを勝手に年寄りにするな」
メガネのフレームを指で押し上げるフリをしながら、夏郎にしか聞こえない声音で呟いてみせる。ちょっとした悪戯心というやつだ。
「……俺、今度機会があったら、上田さんに、もう一回携帯番号を聞いてみようかな」
「え? 知章が?」
「悪いか?」
「べえっつにー」
ひょいっと肩を竦めてみせるその姿からは、彼がどう思っているのか窺い知れない。多分本人にも解らないだろう。
これからが楽しみだと思う。不出来な子供を見守る親の心境で。
「早くオトナになれよ、子ザル」
「けんか売ってんのかよてめー」