088:髪結の亭主

 

 

 自分より幾分長い髪が風に遊ばれる様を、アンナはぼんやりと見詰めていた。頬を叩くそれらを煩わしそうに掻き揚げた葉は、視線に気付いて首を巡らせる。
「ん? どーかしたか、アンナ」
「別に」
 急に目が合い声をかけられたからといって、容易に狼狽えるような真似はしない。それ以上の会話を避けるように手をつと伸ばし、風に乱されたままの髪を軽く整えてやった。
「……ぐしゃぐしゃじゃない。アンタ、髪長いんだからゴムでまとめるくらいしなさいよ」
「おお、すまんな」
 へらりと笑う葉に対し、アンナはあくまで無表情を貫く。適当に見苦しくない程度に髪を撫でつけ、手を離す。
「あとはウチに帰ってから櫛で梳かしてあげるわ」
「え、や、いいって。別にそこまでしてくんなくても」
 これで充分だと遠慮しかけた葉はしかし、アンナの幾分低くなった声音と鋭くなった目付きにびくりと肩を震わせた。
「何、アンタ。あたしの厚意が受け取れないっていうの?」
「いっ、イイエ是非ともよろしくお願いしまっす!!」
 びしぃっと姿勢を正して最敬礼をする。……最敬礼に意味はないのだが。
 宜しいとばかりに歩き出したその小さな背を、葉は胸を撫で下ろしてから追った。
「じゃあ、そしたらオイラがアンナの髪梳かしてやるよ」
「……アンタが?」
 思い切り不審そうな声に、葉はつうと冷や汗を流す。マズったかビンタ秒読み態勢突入かと不安に陥るものの、アンナの右手が動く気配はまるでない。
「頼んだわ」
 一瞬、何を頼まれたのか理解出来なかった。
「おっ……おお!」
 とりあえず怒られなかったことにまず安堵して、そういえば彼女の髪に触れるのは初めてだということに思い当たる。背中の流しっこならぬ、髪の梳かしっこ。なんだか夫婦のようだと、葉はへらりと頬を緩ませた。

 

(……何を言い出すかと思えば)
 彼は本当に侮れない。
 アンナは自分の髪を一房摘まみあげた。木乃以外には殆ど、木乃にも数えるくらいしか触らせなかった髪。それを、夫になるであろう男に触らせるという。
(…………)
 なんだか頬が仄かに熱い。なんとなくみっともない顔をしているような気がして、アンナは歩調を速めた。少し強めの風が、熱を帯びた頬を気持ちよく撫でていく。