099:ラッカー
千歳はあんぐりと大きく口を開けて、暫し呆然と目の前の光景を見詰めた。
「あっ、ちーちゃんだー」
おーいと、呑気そうなわぴこの呼び声でハッと我に返る。それと同時に、呆然としていたときには感じなかった怒りが改めてふつふつと沸いてくるのを感じ、千歳はその勢いのまま怒鳴った。
「ちょっとあんたたち! あたしの学校に何してるのよ――――――――っっ!?」
「あはははは、ちーちゃんが怒ったあ」
「おお怖。鬼婆みてぇ」
千歳の剣幕を恐れるどころか、むしろ楽しむように笑うわぴこと葵は、服といわず顔といわずラッカーにまみれさせている。
「……だからやめといた方がいいって言ったのに」
渋面というより苦笑にやや近い複雑な表情の秀一も、二人ほどひどくはないものの似たり寄ったりな状況だ。そして他にも、我ら2年B組生徒たちが勢ぞろいし、せっせと学校にラッカーを振り掛けている。
「ねえねえ見て、ちーちゃん。綺麗でしょー」
わぴこが自慢げに笑った。
校舎という広大な建物に描かれたものは、花だったり動物だったり食べ物だったりする。決して傑作とは言えない歪で拙い絵が、校舎の白い場所の殆どを多い尽くしていた。
「馬鹿なこと言ってないで早く消しなさーいっ!!」
「ええ〜」
「つべこべ言わないのっ!!」
「ちーちゃんもおいでよ。一緒にやろう。楽しいよ!」
「ひとの話を聞きなさいっ!!」
千歳がどんなに怒鳴っても、わぴこに堪えた様子はない。にこにこへらへら笑い続けているわぴこと、対称的に怒鳴って体力と気力を消費し続けている千歳の二人の言い合いの結末など、火を見るより明らかだった。
「あいつもよく諦めねーよなあ。わぴこに目ぇつけられて逃げられるわけねーのに」
「でもウチみたいなクラスには、一人くらい会長みたいな人がいてくれた方がいいと思うよ。バランス的に」
「あいつ一人にわぴこと俺たちじゃ荷が重すぎだろ」
「じゃあ葵が会長助けてあげるかい?」
「冗談!」
葵と秀一は互いに顔を見合わせて笑う。「わぴこに目をつけられた」千歳が、こちら側に染まらずどれだけ耐えられるのかが見物だ。葵が勇んで立ち上がる。
「よおっしものども! 千歳を狙えーっ!」
おおおっとそこここで声が上がり、それぞれのラッカーが千歳に向けて勢いよく噴射された。
「きゃあっ! ちょっ、上からなんて卑怯よ!! 丸腰のか弱い女の子一人にそんな大勢で、あんたたちの良心は痛まないわけーっ!?」
「加勢するよちーちゃんっ」
良心が痛んだのか否かは不明だが、わぴこが台からぴょんっと飛び降りて千歳の前に立つ。持っていたラッカーを上に向けて噴射させる。下から上を狙ったにもかかわらず、わぴこのラッカーは狙った先の全員に降りかかった。
「うおーっ」
「きゃーっ」
「やったなこのーっ」
大乱闘である。全員がラッカーまみれで、先程まで声高に反対していた千歳もいつの間にか、誰かのものを奪ったのか、ラッカーを振り回している。もう既に、誰が何を言っているのか判別できないほどの混乱の中、意味を成さない叫び声が混じってさらに混乱は大きくなった。本人でさえ、何が言いたいのか何を言っているのかを理解しているのかどうかも怪しい。唯一の救いは、この騒ぎが殴り合いなどの喧嘩沙汰ではないということくらいだ。
「そ・こ・ま・でーっ!」
わぴこの声が全員の動きを止めた。各々がわぴこの声だと判断する前に、全員に冷たい水がシャワーのように降り注ぐ。
「「「ぎゃ――――――――――――――――――――っ!!」」」
突然のことに驚いてのた打ち回る千歳たちは、段々状況が飲み込めてくるにつれ冷静さを取り戻していった。
「う〜、びしょびしょ〜」
「もうわぴこっ! いきなり何すんのよっ!?」
「えへへ〜、ちーちゃんたち、綺麗になったでしょ?」
千歳の非難をものともせず、わぴこが笑う。見れば、ホースの水をかけられた生徒たちは全身についていたと思われるラッカーが綺麗さっぱり落ちていた。服についたものは、自宅へ持ち帰って洗わねばならないだろうが。
「やったなわぴこ、お前も食らえっ!!」
「きゃーははーっ」
何処から持ち出したのか、ホースを手にした葵がわぴこに向けて水を噴射する。わぴこは驚くことも怒ることもせず、ただ楽しそうに水を浴びた。
「わぴこちゃんたちだけ、ずるーいっ」
「俺も俺も」
「あたしもあたしも!」
今度は水かけごっこの始まりである。
「ちょっとあんたたち! 校舎にも向けて水かけてちょうだいっ!」
学校が綺麗になるまで全員帰さないからねっ! と千歳に宣言され、生徒たちはええ〜と不満顔になった。
「ちーちゃん見て見て! 虹!」
はしゃぐわぴこの声につられ、千歳は空を見上げる。
「そっちじゃなくて、こっちこっち!」
視線をずらすと、わぴこは葵と秀一を含め、何人かの生徒と小さなプラスチックのバケツを覗き込んでいた。
「水にラッカー吹きかけたらこうなったの」
バケツの水面に張った、薄い虹色の膜。
「……虹っていうより、シャボン玉じゃない」
「可愛くねーなお前」
「なんですってー!」
睨み合いに突入しかける千歳と葵を、間に入った秀一がまあまあと取り成した。
「でもきれいだねえ」
わぴこが言う。すぐ傍から、うんそうだね綺麗だ虹みたいなどと言った賛同の声が上がった。
ゆらゆらと、バケツの中の虹は揺れる。
ゆらゆらきらきらと、太陽の光を反射して瞬く。
虹の構造など、いまどき小学生でも知っていることだ。プリズムがどうのとか、光りの反射がどうのとかいうことが脳裡に思い浮かび、千歳は頭を軽く振ることでそれを追い払った。わぴこの傍らにしゃがみ込む。
「そうね、綺麗よね」
それを聞いたわぴこが嬉しそうに笑う。まだところどころにラッカーをこびりつかせたままのその笑顔は、太陽の何倍も眩しく感じられた。
「ぎょぴちゃんの金魚鉢でやったら、きっともっと綺麗じゃないかなあ」
「あんたぎょぴちゃん殺す気っ!?」