「姫様だ!!」

 

 その声に、誰もが打ち合いを止めて顔を上げる。練習場がざわめいた。

 

 

 

 

 

過去の虜囚、未来を知らず

 

 

 

 日本国全土を覆うほどの巨大な結界を張り続けている知世は、殆ど祷場から外へ出ることはない。私室や寝室などは別にあるので定刻にそれぞれの部屋に移動しているが、それでも起きている時間の大半は祷場に籠りきりになっている。けれど時折、何かと理由をつけては忍軍たちが鍛錬に勤しんでいる練習場へ立ち寄ることがあった。何のことはない、目的地へ赴くための通り過ぎがてらにちらりと顔を出すだけである。頻繁に訪れては鍛錬の妨げになりかねないと、その頻度は限りなく低い。
「姫様がこのようなむさ苦しい場所においでになるとは……」
「今日はもうお勤めを終えられたのか?」
「いつ見てもお可愛らしい」
「馬鹿者!! 下らぬことを喋っている暇があるなら鍛錬に励め!! 誰が打ち合いをやめていいと言った!?」
 響き渡る怒号に、忍たちは弾かれたように持ち場へ戻った。さっきよりも威勢のいい打ち合いの音が、そこここで聞こえる。
 一緒になって知世を見詰めていた黒鋼も、はっと我に返ったように竹刀を構え直す。
 と、その時だ。
 未だ視界の端に映っていた知世が、何の前触れもなくふわりと微笑んだ、から。

 

「余所見をするなあっ!!」
「ッ!!」
 ガラ空きの正面に打ち込まれた竹刀を、間一髪で受け止める。一瞬勢いに押されてしまったが、その反動を利用して相手に打ち込み返した。

 

 

***

 

 

「黒鋼」
「知世姫っ!?」
 部屋の前に佇んでいる主に、黒鋼は慌てて駆け寄った。
「どうしてわざわざ……呼べば俺が行ったのに」
「鍛錬で疲れていると思いましたので」
「あれくらいで疲れる俺じゃない。物足りないから、これから自主鍛錬をしようと思ってたところだ」
「ふふふ。それは頼もしい限りですわね」
 むっと顔を顰めた黒鋼はその言葉に、今度は肩を落として呟くように言う。心底悔しそうに唇を噛み締めた。
「まだまだ全然駄目だ。まだ蘇摩にも勝てない」
 知世直属の護衛は、今のところ蘇摩一人。今のところはそれで事足りているし、何より彼女は天照のお墨付き忍だ。黒鋼が知世直属の護衛になりたいと願うなら、少なくとも蘇摩と同等か、それ以上の力量を見せて周囲に認めさせる必要があった。
 黒鋼は強く、並みの忍がどれ程の束になっても引けを取らない。蘇摩にも、まったく歯が立たないというわけではない。
 それでも。
「もっと、強くならなきゃ駄目なんだ」
 あの時の自分がもっと強ければ、きっと助けられた筈の人々。泣くことも憤ることも悔やむことも恨むことも、黒鋼は既に飽きていた。もう二度と、あんな思いはしたくないから。
「知世姫。俺はもっともっと強くなる」
 そういう黒鋼の眼は知世を見詰めていたが、その先にあるのは彼の過去だ。愛したものを根こそぎ奪われたあの日こそを見据えている。だから彼は気付かなかった。

 

「…………」

 知世の瞳が悲しそうに揺れ、そっと伏せられたことを。
 そしてそれが、あの日二人の別離を決定付けたのであった。