「姫様、ご覧下さい。桜があんなに」
「ええ、とても素晴らしいですわ」
素敵な報告を連れてきた蘇摩がスッと簾を上げる。眼前に広がる一面の薄紅色の景色に、知世は目を細めて微笑んだ。
「宴の支度をして参りましょう」
「そうですわね、皆も呼んでお花見をしましょう」
一礼して去っていく蘇摩を見送って、本当にいい忍だと感嘆する。優しく、気立てもよくて実力も確かだ。忠誠心も厚く、さらに見目麗しい。さすがはあの姉が見出しただけのことはある。
「…………」
そこまで思って、知世はそっと目を伏せた。蘇摩は確かに優秀だが、本来は知世ではなく姉である乾闥婆に仕える忍である。妹の知世の傍に控えているのは、彼女に直属の忍がいないからだ。
必然のように瞼裏に浮かんだのは、今はいないもう一人の忍。元気でいるかしら。ここではない、どこか遠い世界にいる彼に思いを馳せた。蘇摩とは違い、粗野で粗暴で、実力はあるけれど聞き分けがなくて、配慮に欠けた男。
一回り以上も小さい少女を、自らの主と仰ぐ男。
「……黒鋼」
ぽつりと、それは知らずに零れた。彼を異世界へ飛ばして以来封じていた筈のその名前を、とうとう零してしまった。知世は息を吐く。
「負けてしまった気分ですわ」
どこか子供らしさを感じる、拗ねたような口調。常の彼女からは考えられないものだったが、構わない。どうせ見ている者などいないのだ。だからこそ漏れてしまった呟きとも言える。
今ここにいないのだから、いくら呼んでも意味がない。あるのはただの虚ろ。ぽっかりと抜けた空白。
けれど、そうしたのは他ならぬ知世自身だった。過去に振り回される彼を見ていられなくなったから。このままではいけないと知っているけれど、言葉で戒めるだけでは、彼は決して聞く耳を持たないと解っていた。
だから、ここではない世界へ飛ばした。話に聞いた次元の魔女の元へ。誰のどんな思惑が絡んでいようと関係ない。そんなものがなくとも、自分はきっと同じことをしただろうから。とびきりの脅しをかけ、煙に巻いてやった。チカラを持たぬ彼が疑う余地もなければ、そうそう無闇に殺生を行うことはないだろう。
けれどもし、彼が自身の強さを減らして戻ってきたら、それは。
(彼が、自らの強さよりも重きを置く存在に出会えたことの、証)
そうであってほしいと望む。力で押し切るだけが強さではないのだと知ってほしい。漆黒と緋色の世界よりも、もっと温かなものを見つめてほしい。
「よく言いますもの。可愛い子には旅させよと」
本人がいたら怒り出しそうなことを思って、さらに笑みが零れた。柔らかだったそれは、けれど痛々しいものを胸に落とした。ああと嘆息する。だから駄目だったのに。今日はよく彼を思い出してしまう。
風が吹く。視界の端で、桜の花びらが舞った。
そういえば彼は、桜が好きだった。風流だの趣だのはてんで理解しないくせに、桜のよく見えるこの部屋で酒を飲むことが好きだったらしい。騒がしいことは嫌いだと言って宴に出ない彼と一緒に二人で、ときどきは蘇摩もまじえて、毎年のように花見をしたものだった。
「……黒鋼」
零れる声を止められない。あまりにも口に馴染んだそれは、なんの痞えもなくするりと口から落ちて胸に滲む。
「黒鋼、」
震える指先を握り込んだ。どれだけ声を嗄らしても、彼に届くことはないと知っている。だのに何度も名前を呼んで、それで自分は一体どうするというのか。返る声はなく、気配を感じることも、姿が現れることもない。ただ彼はここにいないのだという事実を突きつけられるだけだというのに。
「桜が」
風が吹く。花びらが舞う。――散っていく。
「桜が、散るのです」
瞼裏に浮かぶのは悲しい未来。そんなものは認められない。認めたくはない。だって彼は、彼らは既に充分すぎるほど奪われた。だからこそ先を知る者たちは願い、せめてと抗う。
戻ってきてくれなくても構わない。何処か気に入った世界を見付けて、そこに骨を埋めることになってもいい。何の便りも知らせもいらないから、だからせめて。
ここに、日本国という国にいたこと。そこで仕えていた主がいたこと。
桜という名の花が好きだったこと。主と同僚と一緒に花見をしたこと。
殺伐とした日々の中に、穏やかな時間も確かに存在していたこと。
そのことだけは、何処にいても誰になっても忘れないでいてほしいと、ただ願った。
風散桜幻