おれ、あめりかいくんだ。

 

 リョーマの口から飛び出した言葉は酷く現実味に欠けていて、けれど彼のテニスの才能と実力からすれば当然のものだった。
 いつかはくる別れなのだと。それが、遅いか早いかの違いなのだと。
 充分に承知していた、筈だった。
「……そっか」
 口をついて出た言葉は自分でも驚くほど淡々としていて、桜乃は少し安心した。
 一緒に肩を並べて帰るようになってから、もう一年。けれどリョーマと桜乃の二人は、別に付き合っているわけではない。恋人同士となるには必須の通過点であるらしい告白というものを、お互いにしていないからだ。
 リョーマは目の前にある目標を追いかけるのに必死で、何かに気を取られるような暇なんてなく。桜乃は自分の内に生まれた感情をそんな彼に伝えるには、悲しいくらいに臆病すぎた。
 放課後、肩を並べて一緒に帰る。ただそれだけの関係。交わす言葉は少なくて、一人で帰っているのと大差ない帰り道だけれど、桜乃にとっては何にも変え難い貴重な時間だった。
「それで……いつ?」
「向こうの新学期に合わせて行くから、今年は全国大会出られない」
「……それじゃあ、もう一ヶ月もないんだね」
 しみじみと、感慨深げに桜乃が呟く。その表情は、ただ静かだ。
「……竜崎」
「向こうでも、頑張ってね」
 いっそ晴れやかな笑顔で言った。けれどリョーマは、ふいとそれから目を逸らす。照れたのではない。見ていられなくなったのだ。何故かなんて、きっと自分でも解ってはいまい。
「…………」
「……どうしたの? あんまり、嬉しそうじゃないね……?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「……リョーマ君?」
 リョーマは数秒躊躇った後、僅かに掠れた声で言った。
「……もう、アンタと帰る時間もなくなっちゃうんだね」
 なんかそれって、ちょっともったいないよね。
「…………りょ、」
 桜乃の声も掠れる。震えてしまいそうになる唇を、きゅっと噛み締めた。
 どうして。
 どうして今になって、それを言うのか。
 これから、輝かしい未来が待っているのではないのか。そこへ向かって、走っていくのではないのか。
 それなのにどうして、わざわざ自分から、こちらに未練を残すようなことを。
「……ばいばい、リョーマ君」
 するりと口から滑り出たのは、そんな言葉だった。
「……竜崎……?」
 驚いたような、困惑したような、リョーマの顔。彼のそんな表情は滅多に見られるものではない貴重なものだったが、今回は嬉しくなかった。
 もう会えないんだ。
 改めてそう思うと、鼻の奥がツンとした。目頭が熱くなる。
(だめなのに)
 今、ここで泣き出したりしては。
(リョーマ君、きっと困る)
 優しくて鈍感なひとだから、きっと対処に困って戸惑ってしまうことは容易に予想出来るのに。
 何も告げられないならせめて別れは笑顔で見送って、マトモな思い出として残りたかったのに。
(……ごめんなさい)
 けれど止められない。
 堰を切ってしまった涙は、止め処もなく溢れ出る。
 行かないでほしかった。本当は。
 この想いは叶わなくても、ずっと一緒にいることは出来なくても、いつまでもあのきらきらしい姿を見せてほしかった。
 泣いて縋って、それで彼が日本に留まってくれるというのなら、そうしたかもしれない。けれど、違うから。
 どれだけ涙を流し、どれだけ言葉を重ねようとも絶対に振り向いてくれないのだろうことは、きっともう最初から解っていた。
「大好き、だよっ……」
 ぽた、ぽたた。
 涙とともに、ずっと言いたくて、けれど言ってはいけなかった言葉まで溢れた。けれど桜乃は、その言葉に代える声など期待していない。
 迷わないで。その心のままに走って。
 振り返らず、前だけを見て一目散に走っていく。そんな貴方が好きだから。
 疑うことすら許してはもらえないくらいの強さで、どうしようもなく魅かれた。
「ずっとずっと、忘れないから」
 この気持ちが変わってしまっても。
 貴方がもっともっと遠い、手の届かないひとになってしまっても。
(リョーマ君が私を、忘れちゃっても)
 今この瞬間に抱いた想いは、きっと永遠だ。

 

 

君のためにさよならを

 

 

 

(りゅう、ざき)

 こんな時は、なんて言うべきなのだろう。
 自分を好きだと、そう言って泣きながら笑う彼女を抱き締めたいのに、こんな時ばかり体は動いてくれない。それがどうしようもなくもどかしく、情けない。悔しくて悔しくて、リョーマは皮膚が裂けんばかりに拳を強く握る。
「……おれも」
 好きだよ、か。それとも、忘れない、か。
 紡ごうとした言葉は声になる前に喉で萎えて、結局は何を言いたかったのかすら、自分でも解らなくなってしまった。
 泣きじゃくる細い肢体を抱き締めることも甘い未来の約束を囁いてやることも何も出来ないのならば、せめて。
 今この瞬間に流される自分の為だけの彼女の涙と微笑みだけは覚えていよう、と。
 そう思った。