雲一つないまっさらな快晴よりも、あたしは抜けるような蒼に真っ白な雲が幾つか浮かんでるような空が好きだ。副委員長からメールを受け取ったのは、そんな日の朝だった。
「それじゃあ、今から放送委員会を始めようと思います」
「三人でか」
 潮月先輩、ナイスツッコミ。
 あたしは心の中で拍手を送った。委員会は本来、放課後に決められた場所で決められた委員全員で行うものであって、昼休みに丁度空いていた教室で適当に、決められた委員ではあるものの全員には程遠い人数で行われるものではないよな、うん。どうでもいいけど。
 紙パック牛乳『アイミルク』を啜る。買うと何故か周囲から好奇の視線を集めるという謎アイテムだ。確かに他の飲み物より値段は安いが、賞味期限や温度、味に問題はないのにどうしてだろう?
「もうすぐ四人になるよ」
「だからどうした」
 鹿島先輩のボケを言葉少なに切り捨てていく様は、いつ見てもある種の尊敬すら感じる。それと同時に、その手馴れた様子には潮月先輩の常日頃の苦労心労が透けて見え、あたしはこっそり袖を濡らさずにはいられないのだ。
 とはいえ、鹿島先輩は発言するたびに横から槍を入れられる(あたしからすれば、それは適格なツッコミなのだが)現況に機嫌を損ねたらしい。普段は微笑んだままあまり変化のない表情をむっと僅かに顰めた。
「もう何なのさ、折角俺が珍しくやる気になってるっていうのに。今度はまたいつやる気になれるか判らないよ?」
「宣言するな。少しは恥じ入れ」
 ……それにしても遅いなあ、戸隠のやつ。あたしはジャムパンを齧った。友達の誘いも蹴った折角の昼休みが、目の前で繰り広げられる先輩たちの漫才見ただけで終わるなんてあまりに虚しすぎる。戸隠も鹿島先輩に負けず劣らずボケ属性なので、本当を言うと来てくれなくても一向に構わないのだが、今回は来てくれないと話が始まらない。来たところで、今度は話が前に進まなくなるのは目に見えているが。何だろうこのジレンマは。
「遅れましたー!」
 ドアがガラリと開いて、ようやく戸隠が顔を出した。
「わ、俺最後!? すみません!」
「……やっと来たか」
 潮月先輩がふうと息を吐き、
「俺たちも今来たとこだよ」
 と、見当違いな気遣いをするのは鹿島先輩。
「あー、委員長が起きてる! おはようございまーす!」
 既に「こんにちは」の時間帯なんだけども。
「どうしたんですか? いつもなら、昼休み終了十五分前まで寝てるじゃないですか」
 戸隠はただでさえ丸い目をさらに丸くして驚きながら、何の断りもなくあたしの隣に勝手に座った。や、いいんだけどさ別に。
「なんであんたがそんなこと知ってんの?」
 あたしの疑問は尤もなことだ。三年の先輩と一年のあたしたちでは、当然教室の階も違えば一緒に授業を受けることなんてまずあり得ない。接点はせいぜい、部活か委員会くらいなものだ。鹿島先輩の睡眠+起床時間なんて、同じクラスの人しか知らないようなものだろう。
「だってさあ、委員長いっつも寝てるんだもん。折角だから一ヶ月平均でどれくらいの睡眠時間になるのか、ちょっと観察日記を」
「「つけんな」」
 あたしと潮月先輩がハモる。ヒトのプライバシーを何だと思ってるんだこいつ。
「ストーカーだ、ストーカーがいる。サイテー」
「ああ、あの、燃料を一定に保つためのアレ」
「それは給炭器(Stoker)。いちいちボケなくていいよ、ツッコミづらいしソレ」
「とか言いつつ付き合ってくれるネコが好き」
「ウゼェ」
 「ネコ」とはあたしの渾名だ。本名「根本翔子」が縮められてそう呼ばれている。ちなみに言うと、あたしが猫っぽいとか、そんな由来ではない。誰が呼び始めたのかはもう忘れたが、案外隣であんバタ(餡子とバターが入ったコッペパン)とかいうクドいものを食べてるこいつなのかもしれない。
「それじゃあメンバーも揃ったことだし、始めようか」
 珍しく鹿島先輩が委員長らしいことを言って、ここに集まった目的がようやく果たされようとしているのであった。

 

 先にも述べたように、あたしたちは放送委員会である。昼休みや清掃時、放課後などに音楽や放送を流すことが主な仕事だ。流される音楽は特に決まっておらず、放送室にあるクラシックや懐メロなどが適当に流されたりもするが、大抵は当番の生徒が持ち寄ったそれぞれの好きな曲、オススメCDが流されている。放送委員でない生徒は、流してもらいたいCDを委員にリクエストすることも出来る。
 今回のこの集まりはその曲決めのためのものだ。今週はまた別のチームが当番だが、次週は私たちの当番が回ってくる。別に集まらなければならないという決まりはないのだが、ウチのチームには委員長副委員長が揃ってるんで、何だかんだ言いつつ、こういう集会はわりと真面目な方だ。
 曲が流れてたって誰かが歌うわけでもなく、大半は聞き流されているのだろうが、BGMがあるのとないのではその時間の雰囲気というか感じが全然違ったりするから、実は結構欠かせない仕事かもしれなかった。フツーにサボる委員も、まあいるにはいるけれど。
「で、今回CD持ってくるのは戸隠だっけ」
 鹿島先輩が眠そうに目をトロンとさせて言った。本名を鹿島洋介と言い、この人こそが、我が放送委員会現委員長である。委員会やこの集まりがなければ滅多に会わない三年生で、あたしはこの人が起きている姿をあまり見たことはない。
 委員長という役職ですら、寝ている間に押し付けられたに違いないボケ委員長ではあるが、何故か驚くほど美人なのだ。先輩が入学してから三度目の春を見送った今も、道行く人々は先輩を振り返りほうと息を吐くことに飽きないという。
 職人技並みに整えられたパーツが、それぞれあるべき場所に嵌めこまれることによって生まれる造作美という名の奇跡は確かに感嘆ものだ。あたしも初めてその御顔と対面した時は自らの呼吸が止まる瞬間を体験したものである。見る者の性別すら超越して相手を惹きつけて止まないその容貌には、女としての嫉みや妬みを通り越して最早平伏するしか術を持たない。美人は三日で飽きるとかいう言葉を残した男を目の前に連れてきてもらえるなら、あたしは覗き込んだ顔が映りこむほどよく研いだ剃刀の刃を熨斗に包んで進呈するだろう。折角だから、首を括るのに具合に良さそうな荒縄と頑丈な踏み台も無償で提供しようじゃないか。
「じゃーじゃじゃんっ!」
 この無駄にテンションの高い戸隠健太は、あたしと同じく一年のペーペー委員だ。クラスも別でこの委員会に入ってから始めて顔を合わせたのだが、何故かいつの間にか戸隠がボケてあたしが突っ込むという、鹿島先輩と潮月先輩の二代目のような図式が出来上がっている。実にいい迷惑だ。
 それはさておき、戸隠からCDを受け取った潮月先輩の眉が訝しげに歪む。
 本名は潮月和哉。ボケ委員長に代わって、放送委員会の権限は殆どこの人が握っていると言っていい。いつものほほんと微笑んでいるような鹿島先輩と違い、この人は無表情がデフォルトである。鹿島先輩のボケにも眉一つ動かさず突っ込み切り捨てる様はいっそクールだ。無口で無愛想で、さらに容姿が整ってるだけに妙な迫力がある。その筋の話では、どうやら鹿島先輩とは幼馴染の腐れ縁らしい。そりゃあツッコミにも年季が入るというものだろう。
「……これは」
「え?」
「は?」
 鹿島先輩とあたしは潮月先輩の手元を覗き込む。おどろおどろしいパッケージの、そのタイトルに絶句した。
「やー、この前恐竜映画観てさ、それがすっげー面白くて、思わずサントラまで借りちゃった〜」
「『ちゃった』じゃないでしょ馬鹿っ! これを昼休みに流せってか! 何考えてんのあんたは〜〜〜っっ!!」
 あたしの右ストレートが戸隠のこめかみに当たる。でも首を曲げたまま戸隠は軽く呻いただけで、ケロリとしたものだ。むむ、無駄にタフはやつめ。
「や、でも結構楽しいのもあるんスよ? 駄目っスか?」
「……駄目だろう」
 そう言いながら、潮月先輩はCDを戸隠に返す。
「当日前に召集かけて正解だったな」
 そしてため息混じりに言った。戸隠という男は、そーゆうある意味で期待を裏切らないやつである。……っていうか、よりによって恐竜映画のサントラ持ってくるかフツー。
「じゃあ、今度は俺が持ってこようか」
「却下。お前、碌なCD持ってなかっただろう」
 鹿島先輩の申し出はあっさり退けられた。ど、どんなCD持ってるんだろう……。
「根本は何か持ってないか?」
「持ってなくはないですけど、最近殆どレンタルですから……。潮月先輩は?」
「似たようなものだ」
「……まあ、いざとなったら放送室にあるものをかければいいだけですからねえ」
「それもそうだな」
 あたしたちがそれらしい話をしている間、鹿島先輩と戸隠のボケ二人はさっきの恐竜談義に花を咲かせていた。何のための集まりか理解しているのだろうか、この二人。
 あまりに珍妙な話をしているものだから、あたしたちもついつい耳をそばだててしまう。
「恐竜といえば、その絶滅の真相ってまだ明らかにされてないんでしょ?」
 鹿島先輩が言った。
「え、そうなんスか?」
 ノるな戸隠。
「隕石の衝突とか、火山の噴火とか疫病とか、いろいろ説はあるらしいよ」
「委員長は何だと思います?」
「そうだね、宇宙人の侵略もロマンがあっていいと思うな」
 どんなロマンですか鹿島先輩。この人は、たとえ人類滅亡の報せがあったとしても何一つ変わらない気がする。燃えながら迫り来る隕石を、眠そうにトロンとした目で見上げる鹿島先輩。うーん、シュールだ。
 そりゃあ十年以上も生きてれば、空から降ってくる水滴も白い結晶も電気の槍も、雨や雪や雷っていう自然現象だと気にも留めなくなるけれど、でも空からいきなり巨大な隕石が降ってきたりしたら驚かない人間はいないだろう。それが人類滅亡なんて結末を連れてくるなら尚更だ。
「うわ、SFっスね委員長。俺はかぐや姫みたいに月に帰ってたら面白いと思います」
 月が故郷なのか、恐竜たち。っていうかそれって……。
「戸隠……、それマンガのネタでしょ? 女子に借りた?」
「あ、あははははー、やっぱバレました?」
 男子生徒として、少女マンガを借りてた事実を知られるのはやはり恥ずかしいのか、戸隠の声が裏返った。
 でもそーゆうことは、鹿島先輩もアレ借りたことあるんだ……! な、何か意外。ものすごく。良くも悪くも浮世離れしてる人だから、マンガとかいう俗物に興味があるっていうのは何となく違和感がある。や、別に悪いとか言うわけでもないのだけど。
「もしも人間が地球を捨てて火星だか月だかに移り住むことになったら、俺たちは『何人』って呼ばれるんだろうね?」
「……誰に呼ばれる気だ、お前は」
「仮想にツッコむなんて無粋だよ、和哉」
 うーわー、鹿島先輩が潮月先輩を窘めるトコ初めて見た!っていうか呼び捨てで呼んでたのか。さすが幼馴染。
「じゃあ言い方を替えようか。別の星に移り住んだ俺たちは、『何人』って名乗るんだろう?」
「う〜ん、火星人は判るけど、月人……? いや、月星人?」
 こんな質問で真剣に考える馬鹿はもちろん、戸隠しかいない。まったくもって幸せなやつである。
「移り住んだ場所で生まれる子供たちは、望遠鏡越しに観る地球をどう思うんだろうね」
 鹿島先輩の声はいつも眠そうにふわふわしていて、聞いてるだけでこっちまで眠くなってしまう。声にも魔力があるという話を信じたくなるのはこんな時だ。何か考えるよりも先に、鹿島先輩の声が連れてくるイメージ。この人に付き合っていると、あたしは暫しこんな体験に出会う。
 ――そこにはかつての生活の跡があって、動物や人間の骨が恐竜のそれと一緒になって地中深く埋まってる音のない世界で。
 余計なものを考える生き物がいなくなってからようやくこの星は、自分も宇宙の構成物の一つに過ぎないことを実感するんだ。

 ここはそんなふうに、いつかまぼろしになる。

 

 

「……ねぇ、そういえば月のクレーターって、隕石が落ちてできたんですよね」
 ふと思いついてあたしは言う。っていうか話に混ざってるぞ、あたし。
「あー、聞いたことある。ってことは、人類滅亡後の地球はデコボコの星になるかもしんないのか」
 と、戸隠。
「面白そうだね」
 ふふと品良く唇の端を持ち上げて、鹿島先輩が笑った。この人が面白いと感じるツボはよく解らない。傍らで潮月先輩が小さくため息をついていた。
 想像することは孤独な代わりにどこまでも自由で不可侵だ。たとえば月のクレーターの話だって、月に帰った恐竜のつけた噛み痕かもしれないと仮定してみる。
 恐竜たちは「帰りたい場所があるから悲しくなるんだ」と月を食べてしまおうとするのだけど、やっぱりその懐かしい星をどうしても捨てきれなくて泣きながら吐き出すんだ。そして宇宙へ消えていく。――二度と帰らない旅へ出る。
 それは、いつかの人間が辿る道のような。
「何だか見たくなっちゃったな、その映画。誰かに借りられてないといいんだけど」
「借りようと思った時に限って、誰かに借りられてたりするんスよねー。あ、俺まだ借りてますよ。それで良かったら、明日持ってきましょうか」
「え、いいの?」
「いいっスよ、まだ期日まで日にちあるし」
「わあ、じゃあお言葉に甘えて借りようかな。ねえ和哉」
 空腹も満たされて、外はこんなにいい天気で温かくて、鹿島先輩の話し声が聞こえて。睡魔に殆ど陥落した頭で思う。
 もしあたしが生きている間に人類が地球を捨てることになったら、あたしはずっと当たり前の日々を過ごしてきたこの場所に歯を立てようか。小さくてもいい。地面はきっと苦くて不味くて、食べられたものじゃないだろうけれど。
 そうして遠い何処かから、そのクレーターとも呼べない傷跡を探して生きるんだ。
「……どうしてそこで俺が出てくる」
「折角だから一緒に観ようよ。他の放送委員の子たちも誘って。みんなで観た方が楽しいって」
「だからどうして」
「あ、だったら俺、今度続編借りてきますよ。それも一緒に観ましょう!」
「それはいい考えだね」
「どこがだ阿呆。三十人以上を何処に収納する気だ」
「視聴覚室借りればいいよ。あそこなら全員入れるし、大きなスクリーンもある」
「誰が借りると思ってるんだ……」
「任せたよ、副委員長」
「任せるな。お前がやれ委員長」
「俺はホラ、みんなにメール回さなきゃ」
「あ、俺もやります! どうせならダブルでいきましょーよ」
「お前らそれ、嫌がらせだろう」
「……と、あれ。ネコからの反対がないなんて珍しいね」
「おろ、いつの間に。ネコ、ネコー。おーい、ネコってばー」
「……眠ってるんじゃないのか?」
「いい天気だからね。俺もそろそろ眠いよ」
「お前は寝るなよ」
「えー、けち」
「ケチじゃない」
「――――――――」
「――――」
 ……………………………………………………………………

 

「ネコ? ……ネコ、寝てるのか?」

 

 

 

 それはまだ、いつかのまぼろしのはなし、――――なのだけれども。

 

 

本日は晴天なり