十二月三日――

 

「ありがとうございましたー」
 備え付けの鈴が軽やかに鳴り、朗らかな声が見送った。
 喫茶店『memory』。こぢんまりとしたそこは今時の若者が好みそうな外観ではないものの、雰囲気が良いと幅広い年齢層から密かな人気を集めている。そこの一人娘である風子は、学校の制服の上にエプロンという井出達で、ちらちらと時間を気にしながら朝から店の手伝いに勤しんでいた。背中にかかるほど長い黒髪は、食品を扱うからということで、今は無造作に束ねられている。
「風子、そろそろじゃない? さやかちゃんが来るの」
「うん……」
 母に曖昧な返事をした時、備え付けの鈴がカランと鳴って、客と共に寒風が室内に入り込んできた。いらっしゃいませと顔を上げた風子は、あっと顔を輝かせる。
「さやかちゃん。おはよう」
「うん、おはよー。う〜、寒かった! ここはあったかくていいわあ。オジさん、コーヒー一つください。ホットで!」
 さやかはほっとしたように顔を綻ばせると、いそいそとマフラーとコートを脱いでカウンターに座った。見る者に活発な印象を与える茶色のポニーテールがぴょんと跳ねた。
「ちょっと待ってて、すぐ用意してくるから」
 風子はエプロンを後ろ手で外しつつ、奥へ引っ込む。あんまり待たせちゃ駄目よという母の声が後を追った。
「ゆっくりでいいのよ〜、あたしここで休ませてもらうから。そのために早く来てるようなもんだし!」
 さやかはこの店を気に入っているらしく、待ち合わせ時間より早くに来ては一杯のコーヒーを飲んで寛いでいる。忙しい時など進んでアルバイトを名乗り出、週に一度の割合で、わざわざここで朝食を済ませて行くほどだ。風子の両親も、この明るくハキハキとした娘の友達をいたく気に入っており、コーヒー代を負けてやったり週に一度頼んでいく朝食メニューにこっそりオマケをつけてやったりと、何かと世話を焼いている。
 風子とさやかが友情を結んだのは中学生になってからで、思いの外日は浅い。それでも相手を親友と呼んでも差し支えないくらいに思っているし、相手からもそれくらいには思ってくれているだろうと感じていた。一見正反対と言っていい二人の親密さを、周囲は意外と思っているようだが、本人たちにとっては磁石のN極とS極が引かれ合うのと同じように自然なことだ。どうしてそんなに仲良いのかと訊かれても困る。こちらが訊きたいくらいだ。どうしてそんなこと訊くの、と。
「お待たせ。行こう、さやかちゃん」
「ああ……うん」
「? どうかした?」
 珍しくぼんやりしていたらしいさやかに、風子は首を傾げた。視線を辿ってもそこには何もない。
「大したことじゃないのよ」
 ただね、とさやかの瞳が迷うように揺れる。
「あのピアノ、もう片付けちゃったんだなって」
「――――」
 次に呼吸を止めたのは風子だった。が、すぐ我に返って振り切るように頭を振る。
「あたし、前から風子のピアノのファンだったから、ちょっと残念だなって思っただけ! じゃ、行こうか」
 軽い口調は風子を気遣ってのこと。風子は何も気付かなかった振りをして頷き、足を踏み出した。
「いってきまーす」
「ご馳走様でしたー」
 耳慣れた鈴の音を聞きながら、二人はさっきのことなど忘れたかのように別の話題に移っていく。傷口に触れないように、触れられないように交わされる他愛ない会話。心配して、けれど気を遣ってそっとしておいてくれている彼女の厚意に甘えている自分に、風子は吐き気を覚えた。
(……だって、本当にもういいのよ。だってもう決めたもの。お母さんたちやさやかちゃんが気にすることじゃないし、宮下さんたちが悪いわけでもない――)
 言い訳のように繰り返し自分に言い聞かせる言葉は、それでも胸に蟠る鈍い痛みを和らげてはくれない。この気持ちに嘘はない筈なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。――と、その時だった。
(え?)
 朝の静けさを破る羽音を、その耳が捉えたのは。

 

 

 

 

「……で、この不始末の責任をどう取るつもりだ?」
 地を這うように低い声が、彼の不機嫌さを隠すことなく伝える。只管に跪いていた者たちはひぃっと身を竦ませた。陽光を受けて金色に輝く髪に、冷ややかなアイスブルーの瞳。歪んだ表情も横柄な態度もその整った彼の美貌を欠片も損なうことはなく、むしろ際立たせるのに一役買っている。
「んなこと言ったって仕方ないだろ、俺らの仕事はいつだって慢性的な人手不足なんだから」
 彼以外の者たちがすべて跪いている中、それを倣うこともせず、場の空気が読めていないとしか思えない飄々とした口調と態度を伴って一人の男が言った。本来ならきっちり着こなすべき真白の衣装はややだらしなく崩されている。それはファッション云々というより、単に男自身の性格の表れだろう。へらりと笑うその男に、彼の眉が跳ね上がる。
「こっちの事情なんかおかまいなしに人間はポコポコ死んじゃうしさ、俺たちだけじゃ全部捌ききれないって」
「それを何とかするのがお前らの仕事だろーが」
「そうだけどさ、別に向こうだって遅れたくて遅れてんじゃないよ。いいじゃん、アンタはこっちにちょっと足止め食らうだけで、働くわけじゃないんだし」
 跪くべき相手に、男は臆することなく意見した。けれど言っていることは事実であったので、彼は小さく舌打ち、苛立ちを静めるようため息を吐く。
「……復旧にはどれくらいかかる?」
「ん〜、ざっと見積もって一ヶ月くらい?」
「三週間でどうにかしろ。ボヤボヤするな、行け」
 天主の代弁者たる彼の指令は絶対のもの。その言葉を叶えるべく、彼に跪いていた者たちは速やかに飛び立った(、、、、、)
「一ヶ月って言ったじゃん」
 彼と二人、残った男は子供のように口を尖らせる。
「二週間を三週間に伸ばしてやったんだ、泣いて喜べ」
「ケチ」
「うるさい無能。お前もさっさと働け」
「でも珍しいよな、アンタがこっち来てるの。天主にとうとう愛想つかされた?」
「期日を二週間にしてやろうか」
「おお、図星!」
 悪戯が成功した子供のように顔を輝かせる男に、彼はうっとうしそうに渋面になった。 「違う。その天主から用事を預かってるんだよ」
「へえ、……ってことはこっちの仕事手伝ってくんないの!? 何のための非常要員だよ!?」
 すっかり手伝ってもらうつもりだったらしい男は、嫌そうに顔を顰める。彼は阿呆と男の頭を叩いた。
「お前らの仕事だろーがっ。手ェ空いてる担当がいるなら非常要員の出番はないだろ」
「人手はいつでも欲しいんだってば!」
「気が向いたらな」
 そう言いつつ、その態度は明らかにやる気がない。男はやれやれと諦めたように肩を竦めた。
「無駄話はもういいだろう」
「はいはい。アンタの初めてのおつかいに、天主のご加護がありますよう」
「言ってろ」
 ようやく飛び立った男を見送ることなく、彼は別方向に下降し、すさまじいスピードで自らをどんどん地上に近付けた。
 何が死んだの産まれたの、人間という種族が誕生してからというもの、その場所はいつだって騒がしい。この清浄なる空気とて、じきに消えてしまうのだろう。
(なんだって俺が、こんな七面倒くさいことを)
 文句なら、それこそ吐いて捨てるほどある。それでも断りきれなかったのは、相手の天主という立場よりも――。
 ふと、つまらなそうに眼前を見下ろしていた彼の視線は、ある一点で止まった。口元に、意識しなくとも笑みが浮かぶ。
「――見つけた」

 

 

早朝のプレリュード