「……よって、この例を見ても解る通り、複雑な式を解くにもちょっとしたコツのようなものがあるんだ。たとえば」
 授業はいつだって退屈だ。自らが苦手としている教科なら特に。教師の話を聞いて黒板に書かれたものをノートに書き写す単調な作業には、欠伸だって出る。誘惑を囁く眠気をやりすごしながら、風子はぼんやりと今朝見た情景を思い巡らせた。あれは何だったのだろう?

 

 

 突然の羽音に驚いて、視線を上げた。そこまではよかったのだ。けれど視界に飛び込んできたそれに、風子は自らの目を初めて疑った。
 真白なる双翼。雲の白とは明らかに一線を画する色彩。一つの不純物もないそれは、むしろそれ自体が輝いているよう。風子はあの白よりも眩しい色を、今まで見たことがなかった。
 けれど信じられないのはそんなことではない。
(ひ、と?)
 大きな翼は、空から降りてくるものの背に生えていた。鳥ではない。鳥である筈がない。腕を組み、偉そうにふんぞり返っているそれは、どう見ても人間男性の姿をしていたから。
 そこから連想される生き物など、風子は一つしか知らない。
(天使? うそ……)
 真白なる天からの御遣い。奇跡の体現。けれどそれは想像の中でしか生きられない存在だったのではないのか。
 風子は別に、霊感が強いわけでも、何か特別な能力があるわけでも何でもない。心霊体験をしたこともなければ、特別な家系の生まれでもなかった。今までその世界とは無縁で生きてきたのに一体どうしたことだろうと、風子は目の前のそれを拒否も享受も出来ず、ただ呆然と見詰める。
 音もなく重さも感じさせない動作で、風子たちとは反対側の歩道に降り立った青年(恐らく)は、声もなく凝視する風子に視線を向けた。
(わ、気付かれ……っ)
 なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、風子は慌てて視線を外そうと一歩後退するが、時既に遅く。
(――――!)
 視線が合う。風子は息を呑んだ。
 冷ややかなアイスブルーの切れ長の目。一点の翳りもない色素の薄い肌。細く柔らかそうな金糸の髪が風に揺れる。長身痩躯だが優男という風情はなく、しなやかな美しさを感じさせるその身を覆っているのは、およそ天使というイメージの真逆にある黒衣だ。雪こそ降っていないものの、ただでさえ気温の低い冬の朝に相応しからぬ薄着だったが、寒そうな様子は見られない。そしてそれが、背中の白い翼をさらに際立てていた。
 呆けたように見詰める風子を、青年はニヤリと笑った。慈悲と慈愛に満ちた微笑ではない。傲然と、絶対の自信と余裕の笑み。そのアイスブルーに映り込んだ自分の顔に気付いた途端、風子はハッと我に返った。
「いっ、行こうさやかちゃん!!」
「はっ!? ちょっ、風子?」
 戸惑ったように声を上擦らせるさやかの手を引き、風子はその場から一目散に逃げ出したのである。
(不思議だな……。さやかちゃんも一緒にいたのに、あの天使を見てないなんて)
 校門に辿り着き、「さっきの見た!?」とやや興奮気味に尋ねたところ、返ってきたものは訝しげな表情と「は? 見たって何を?」という言葉だった。それよりもと、急に走り出したわけを尋ねられた風子は、しどろもどろに誤魔化しつつ、教室に逃げてきたのだった。
(でもあの笑い方は……、天使じゃなくて悪魔だよね)
 時間を置いて興奮から覚めたせいか、風子はそんな冗談を思い浮かべられるまでに回復した。もう二度と会うこともないだろうという思いも、それに拍車をかけたのだろう。
(サインとかもらっておくべきだったかな。あんなチャンス、もう二度とないよきっと)
 ふふっと綻んだ表情はしかし、湧くように現れた声と姿によって塗り替えられた。
「――おい」
 低く耳障りのいい声が耳朶を打つ。
「はッ――――!」
 目に飛び込んできたのは、もう二度と会うことのない筈だった青年の、逆さまになった顔。風子は目を丸く見開いたまま、叫びだすことも仰け反ることもできずに固まった。
「俺から逃げ出すとはいい度胸だな小娘。逃げ切れるとでも思ったか?」
「どうした杉崎、授業中だぞ」
 のんびりと間延びした教師の声に咄嗟に口を開くが、その教師も、好奇の視線を送ってくる何人かのクラスメイトたちも、胡坐を掻いた男が天井から逆さまにぶら下がっているというのに何の反応も示さない。風子は半ばパニックに陥ったまま視線を教師と逆さ男の間で彷徨わせていると、
「なんだ、ゴキブリでもいたか?」
 冗談めかした教師の言葉に、クラスメイトたちからくすくす笑いが漏れた。元凶の逆さ男はゴキブリ発言が気に障ったのか、不機嫌そうに顔を顰めている。
(ごっ、ゴキブリなんかじゃないですよお!)
 確かに黒い服は着ているけれども!
 結局、回そうにも回ってくれない頭で弾き出した言葉は、
「すっ、すみません、何でもないです気のせいでした!」
 叫ぶようにそういうと、羞恥で赤く火照った顔を隠すように机に突っ伏した。再び教師の声が聞こえ出すが、もう何を言っているのかすら解らない。
(なんで? どうして?)
 そんな言葉だけがぐるぐると頭の中を廻っていて、風子はくらくらと眩暈を感じた。

 

 

□□

 

 

「あの……、今朝のヒト? ですよね?」
 「ヒト」の辺りが疑問系になってしまうのは仕方がない。散々悩んだ割に、我ながら間の抜けた質問だったが、それ以外にどう切り出したらいいのか、風子には解らなかった。
「そう言うお前は、今朝目があった途端に逃げ出しやがった礼儀知らずだな」
 小馬鹿にしたように言う青年の背には今朝のような翼は見受けられなかったが、寒そうな薄着の黒衣も、髪や目の色から造作は今朝見たもののままだ。折角人気のない屋上階段にいるのだからもう一度あの翼を見せてほしいと、風子はぼんやり思う。
「それは……ごめんなさい」
「まあいい。逃げたくなるのも解らんではないからな」
 さらに文句を言われると思ったのだが、存外あっさりと許しをもらう。やたらと尊大な態度を取っていても、彼はやはり慈悲深い存在なのだろうか。
 勇気付けられるように、風子はおずおずと切り出した。
「……訊いてもいいですか?」
「言ってみろ」
「あなたは何者なんですか?」
 青年は面食らったようにきょとんと目を瞬く。
「なんだ、俺の着地を見たんじゃないのか?」
「みっ、見ましたけどっ」
「なら答えは知れてるだろ」
「え」
 びくびくと空気が震えているような、一瞬の違和感。それに気を取られていると、視界に白いものが入った。ハッと顔を上げ、次いで目を大きく見開く。あ、と呟いた声が掠れた。
 普通の人間では決して持ち得ないそれ。今朝初めて目にした風子を魅了した翼が、そこにあった。青年の足が僅かに地面から離れる。
「…………てん、し……? あの、本当に?」
「それ以外の何に見える?」
「あっ……で、でもっ、私今まで天使とか幽霊とかそーゆうものを見たことなんてなくって、どうして急に見えたのかも全然解んないんです! 私の中で何かが変わったんでしょうか? それともあの、もしかして私、死期が近いとかそーゆうことですか!?」
 言い募るうちに不安になる。死期が迫った者は、この世ならざるモノが見えやすくなるという話をどこかで聞いたことがあったのを思い出した。僅かに青褪めた風子の心境など何処拭く風で、青年は、この俺をゴーストと同列に(たと)えるとはいい度胸だなと眉を顰めている。
「違う。第六感の類なんざ、本来誰でも持ってるもんだ。大勢の人間が集まるスクランブル交差点にでも行ってみろ、死人の一人や二人、お前だって絶対見てるぞ。ただそいつを死人だと認識してないだけでな」
「そっ、そーゆうこと言わないでください〜〜〜〜っっ!」
 耳を塞いでしゃがみ込んだ風子を、青年は面白いおもちゃを見付けたとでもいうようにニヤリと笑った。
「なんだ、苦手なのか?」
「得意な人もいないと思うんですけど!」
「悪かったな」
「へ……」
 風子は驚いて顔を上げた。
(『悪かった』? ……今謝ったの、このヒト?)
 からかい倒されると思ったのに。
「なんだよその顔は」
 思っていたことがバレたのか、青年の顔がむっと顰められ、風子は慌てて首を振る。
「あっ、いえ、何でもないですっ」
「ふん。ホラ、いつまでそうやってるつもりだ?」
「ありがとうございます」
 手を引っ張られ、立たせてもらった。見た目から想像していたよりもずっと力が強かったことに驚く。
「まあお前の場合は、血筋の部分もあるだろうけどな。俗に言う、先祖返りみたいなものだろ」
「え?」
「お前の祖父母か誰かが、俺たちを視る眼を持ってたんだろう。話を聞いたことないのか? 昔はそういう奴らが結構多かったからな」
「そういえばひいおばあちゃんが、昔のご先祖様は巫女さんか何かだったって」
「そいつはまだ生きてる、……わけがないか」
「はい……」
「そんなことだろうと思ったぜ。あいつも解ってたくせに」
「あの?」
 ふぅと小さくため息を吐いた青年に、風子は首を傾げた。
「会いたがってた奴がいたんだよ、お前のその……何代目かの祖母に。でもそいつはもうそんな好き勝手が許されるような身分じゃない。仕方ないんで、俺が代理として探しに来たんだ」
「でも、もしかしたら人違いかも……! あなたたちが探してる人は、きっとまだ生きてるかもしれませんよ!」
「それはないぜ。たとえ人違いであっても、あいつがここに降りてきた時に生きてた人間が、今も生きてるとは思えん」
 その言葉に、風子はようやく、目の前の存在が人間とはかけ離れたものだということを実感した。青年の言う「あいつ」が降りてきたのは、彼らからすればそう遠い過去でもないのだろう。
「まああいつも、自分で『運んで』やってたら、それで踏ん切りついたんだろうけどな」
「運ぶって、何処へ?」
「死んだ人間が行く場所。寄る辺を失くした魂を、然るべき場所まで運ぶのが俺たちの仕事だ」
「ははあ……本当に天の使いなんですね……」
「……お前なあ」
 どこか感心したように声を漏らす風子を、青年は小馬鹿にするような視線で突いた。
「あっ、ってことは、今回『運ぶ』人は私じゃないんですよね? 私は、まだ全然後なんですよね?」
「違うっつっただろ。それに俺は非情要員。『運ぶ』担当の奴は別にいる。俺の用事はこの人探しだけだ」
「あ、じゃあこれでお別れなんですね……」
 それは何だかもったいないような気がした。記念として、せめて手帳に名前書いてもらおうかなと思いを馳せる。
「そのことだが」
「え?」
「お前、名前は?」
 問われて初めて、風子はまだ自己紹介も済ませていなかったことに気付いた。
「すっ、杉崎風子です」
「風子か。よし、風子」
「はいっ」
 名前を呼ばれ、なんとなく姿勢を正してしまう。聞き慣れた自分の名前である筈なのに、何故だか無性に恥ずかしかった。理由もなく頬に手を当ててしゃがみ込みたくなる。
「ゆえあって、俺に三週間暇が出来た。お前も暇そうだからな、付き合え」
 青年はふんぞり返り、風子にビシッと指を突きつけた。つられて素直に頷きかけた風子は、すぐに驚きに目を見開く。
「は!? わっ、私がですか!?」
「他に誰がいる。お前に否定権はないぞ」
「ええええ、あ、あの、でも学校とか授業が」
「仕方ないから、そこはお前の都合に合わせてやる。ともかく今から三週間、お前は俺の相手をしろ。楽しませろとは言わないが、せいぜい退屈させんなよ」
 それが本当に仕方なさそうだったので風子は思わず、はあすみませんと謝りたくなった。そして、再び感じる空気の振動にハッと我に返る。見ればやはり再び翼を出現させていた青年は、もうここに用はないとばかりに窓に足をかけて飛び立とうとしていた。風子は慌てて声をかける。
「あのっ」
「なんだ、まだ何かあるのか?」
 青年は大儀そうに振り返った。冬特有の、冷え冷えした空気にはっきり見える青空。それを背にして今にも飛び立とうとしている天使は、息を呑むほど美しい。風子は慌てて駆け寄った。焦りが高じて声がひっくり返ってしまう。
「あっ、あのっ、私、あなたの名前知らないんですけど!」
「俺たちに元から名前なんてないぞ。だが……そうだな、レグナとでも呼べ」
 後でまた来てやるとそれだけを言い残して、レグナと名乗った青年は今度こそ窓枠を蹴って空へ羽ばたいて行く。
 暫く呆けていた風子だったが、
「ああっ、授業!!」
 再びハッと我に返ると教室へと一目散に駆け出した。

 

 

 

 

(残念だったな、あいつも)
 さぞかし気落ちするであろう相手を思い浮かべ、レグナは小さくため息を吐いた。自分には関係のないことである筈なのに、やはり胸は痛む。それがなんとなく悔しかった。
(だから言ったんだ、受けることないって)
 受けてしまえば、二度と下界に直接かかわれなくなってしまう。それを承知の上で、()は下界に未練を残す自分の心より、存在のあるべきを選んだのだ。それが彼の好ましいところであり、甘さで愚かさだった。
(俺は、お前と同じモノにはならない)
 使命と望みの間で揺れ続けていた彼を、知っているからこその誓い。
 レグナはすべてを振り切るように、飛翔速度を加速させた。

 

 

カプリチッオな再会