十二月十五日――

 

「ただいまー」
「お帰り、今日は早いのね」
 何気ない母親の声が胸に刺さる。両親はこれまでと同じくさやかと寄り道していると思っているようだったが、まさか「天使の地上観光に付き合ってるの」とは言えない。言っても信じてもらえないだろう。だから風子は曖昧に笑って誤魔化し続けるしかなかった。
「手伝うよ」
「ってアンタ、今日の宿題は?」
「今日はないの」
 ホント? と疑わしげな視線を無視し、風子は制服を着替えてエプロンを身に付けた。既に一人、コーヒーを飲んでいる客にいらっしゃいませと声をかける。が、次の瞬間、風子は息を呑んだ。席に案内することもできず、ただ呆然と立ち竦む。震える唇でどうにか音を紡いだ。
「宮下、さん……」
 宮下と呼ばれた少女はコーヒーをソーサーに置き、優雅に微笑む。緩いウェーブの髪がふわりと揺れた。
「御機嫌よう、杉崎さん」
「風子のお友達でしたか。そう言っていただければ……」
「いいえ、お構いなく」
 店主夫妻の気遣いを、宮下真美と名乗る少女は笑顔で退ける。微笑み方はもちろん、コーヒーを飲む仕草から髪を耳にかける動作まで、何を取ってもお嬢様然としていて優雅としか言いようがない。
「ピアノ、本当にやめたのね」
「……うん」
 密やかに交わされる会話は、カウンターの奥にいる両親には届かない。それに対する安堵と居心地の悪さを感じながら、風子は真美のカップが空になる瞬間をひたすら待った。
 彼女は苦手だ。気の強さならさやかも負けていないが、真美にはどこか棘がある。伝えても、こちらの話を聞いてもらえないような頑なさがある。風子はそれが怖い。
「所詮、あなたのピアノに対する思いなど、その程度のものでしかなかったのね」
「だって、それは約束だったし……」
「約束だから? 約束ならば、あなたは何でも受け入れるというの? どんな理不尽なことでも享受すると?」
「宮下さ、」
「どうしてあなたはっ……!」
 真美の声が大きくなりかけた途端、店のドアの鈴がカロンと鳴った。二人は思わずハッと視線をそちらに向けたが、そこには誰もいない。
「あれ、風……?」
「……ごちそうさま」(br> 「あっ、宮下さん!」
 ふうと息を吐いて真美が立ち上がる。無言で代金を渡すと、そのまま何も言わず店をあとにした。
「……宮下さん……」
「何だあの女は」
「っ!?」
 突如聞こえた声に、風子はびくりと肩を震わせる。振り返って声の主の顔を見るや否や、珍しく怒鳴った。
「レっ、レグナさん! どうしてそうやって、いつもいつも私をおどかすんですかっ!!」
「お前が面白いように驚くのが悪い」
 レグナは悪びれもせずしれっと言う。で、と話を戻した。
「何だあの女は?」
「あ、私のクラスメイトです。それよりレグナさん、どうしてここに?」
「俺がお前の家を知らないと思ったか? ……何だお前、あの女とケンカでもしてるのか?」
「ケンカ……というか、何だか嫌われてるみたいで、私」
 答えながら、風子はレグナが自分たちの会話をどこから聞いていたのかが気になって仕方がない。
「お前、ピアノ弾けたのか?」
 途端にびくりと風子の肩が震える。さっと血の気の引いた表情に気付かぬわけでもないくせに、レグナは素知らぬふりで続けた。
「知ってたか? 俺たちは音楽に造詣が深いんだ。聴いてやろう、弾いてみろ」
「あっ、あのっ……今は、ちょっと。ピアノ、片付けちゃったので。そんなことよりレグナさん、折角来たんですから、お茶でもどうですか?」
 風子は僅かに視線を逸らしつつ、曖昧に濁す。話を変えようと試みるも、相手は風子より一枚も二枚も上手だった。
「片付けたのか、もったいない。――ああ、だからあの女はあんなに怒っていたのか」
「そっ……!」
 そんなことあなたに関係ない。そう声を荒げかけて、しかしそう遠くないカウンターには両親がいたのだと思い出す。ハッとした様子で口を噤んだ風子に、レグナは微苦笑をした。
「怒鳴りたかったら怒鳴れ。心配するな、お前の両親には届かない」
 風子は慌てて後ろを振り返った。しかしカウンターにいる筈の両親は見えず、軽いパニック状態に陥る。
「お父さんたちはっ……!?」
 掴みかかるような勢いで詰め寄ってきた風子を、レグナはやんわりと押し留めた。
「落ち着け。心配するな、何もしてない。ただ、お前と俺の空間を少しばかり切り離しただけだ。話が終わったらすぐに戻してやるよ」
 空間を切り離されたと言われても、目に映る光景はいつもの見慣れた店内そのもので、違うことといえばカウンターにいる筈の両親はおろか、道を行きかう人々の姿すら見えないことくらいだ。一体いつの間にそんなことをされていたのだろう。
「これで、腹を割って話せるだろう?」
「レ、レグナさんには関係のないことじゃないですか」
 常にない頑なさで拒絶するも、彼には通じない。
「関係ないわけがあるか。言っただろう、俺はお前の弾くピアノが聴きたい。そのための障害物を失くしたいだけだ」
「弾けません」
「『弾きません』の間違いじゃなく?」
 真っ直ぐな視線が痛くて、風子は逃げるように俯いた。
「ホントに駄目なんです。とても誰かに聴かせられるような腕前じゃなくて。宮下さんとの話を気にしてくれてるのなら、あれはもう忘れてください。もう終わったことですから」
「あの女」
 ふいに落とされたレグナの声に、風子は思わず顔を上げる。何を言おうとしているのか、その先に興味を持った。
「あの女は、悔しがってるように見えたな」
「え?」
「いや、あれは悔しがってるというより、口惜しんでるようだったぞ。……どうしてだと思う?」
 そんなことを訊かれても困る。風子は緩く首を振った。
「……わかりません」
「本当に?」
「だって、だって宮下さんは、……宮下さんは、賭けに勝ったんですから」
 勝敗は決した。ため息が零れる。敗者たる風子は、勝者の望み通りに口を開いた。
 それは、今から少し前の合唱コンクールでのことだった。コンクールと言っても学校内で行われる恒例行事の一つで、何人かの教師と生徒が審査員を勤め、学年ごとの順位を決めるだけの催し物だ。優勝したところで校長名義の賞状が贈呈されるだけで、他に何かの特典がつくこともない。
 宮下真美という少女は所謂お嬢様で、将来の夢はピアニスト、名の知れた講師を雇ってピアノの練習に励んでいるということはクラスの誰もが知っていた。コンクールの伴奏を務めるのは彼女以外にいないと誰もが思っていたくらいだ。けれどその中に一人だけ、そうと思わない生徒がいたらしい。真美に対する対抗意識でもあったのか、或いは毎年の恒例行事を少しでも面白くしたかったのか、その生徒は何故か伴奏者に風子を推薦した。そこから思いの外話が膨らんだのだ。
 風子はピアノを弾くことが好きで、幼いときは何処ぞの教室にも通っていたのだが、それも過去の話。ピアノを将来の職業にするつもりも、教室に通い続けるほどの情熱もなかったが、それでも好きであることには変わりなく。ようは、気が向いたときに気が向いた曲を弾ければ良かったのだ。学校にも音楽室にピアノがあるから、友達に乞われて何度か鍵盤を叩いたことはある。その生徒はそれを知っていたのだろう。そして、知っていたのはその生徒だけではなかった。
 クラスは真美推奨派と風子推奨派に分かれ、どちらがコンクールの伴奏者に選ばれるかの議論は面白可笑しく交わされた。けれど推薦された二人の反応は薄く、こと真美は馬鹿馬鹿しいから辞退するとまで言い出したほどで。それでは面白くないからと、誰かが「伴奏者候補に課題曲を弾かせ、その後多数決で決める。負けた者は今後ピアノに触ってはいけない」という提案を出したのだ。最後のものに関しては、単に真美のやる気を促すだけのものだったのだろう。当然ながらそれさえも真美は退けようとしたのだが、多勢に無勢、さすがの彼女も引くに引けなくなってしまった。
 不正がないよう、全員伏せて行った多数決は真美に軍配を上げ、そして「負け」た風子はその提案を律儀に守っている。
「それでお前は納得してるのか」
 レグナの声はいつもより低く硬く響いた。風子は困ったように笑う。話し続けたせいか、口の中が乾いて声が掠れる。
「納得というか、何だか未だによく解らないんです。ただ、もうピアノは弾いちゃいけないんだなって……」
「弾きたいと思わないのか?」
「それは……、けど」
 風子の視線があちらこちらを彷徨った。早くこの話を終わりにしてしまいたかった。いつの間にかわけも判らないまま、好きなものと無理矢理引き離されたのだという実感の痛みを、早く忘れてしまいたい。
 話を聞いた後の、さやかの気遣わしげな、物言いたそうな視線。ピアノを片付けてほしいと言ったときの、両親の僅かに落胆したような表情。大切な人たちに自分がそんな表情をさせているとだと思うと胸が痛んだ。でもどうしろというのだ。放って置いてほしかった。だって私が好きでやってたことだもの、いつやめたって、何をしたって関係ないでしょう。なのにどうしてそんな責めるような目で見るの――……。
 言い淀むように黙り込んだ風子に、レグナは言う。
「お前が好きなものだ。お前がいつやめようと、それを他人に左右される必要はない。だが俺には、お前自身がその結果をすんなり受け入れてるとは思えん」
「!」
 風子は息を呑む。咄嗟に否定の言葉が出てこなかった。違う、そんなことはないと言いたいのに、言葉に声が伴わない。用を成さない口は空しく開閉を繰り返すばかりだ。
(わたし、は)
 否定しなければ、否定しなければ。――気付いてしまう。認めざるを得なくなってしまう。
 激しく動揺する風子に追い討ちをかけるように、レグナは口を閉じない。
「好きならやればいい。お前があんな下らない提案に従う必要も、好きなものを我慢する必要もないんだ」
 パリンと、何かが砕ける音が響く。
 酷いひとだと思った。鼻の奥がツンと痛くなる。どうしてこのひとはこんなにも酷いことを、平気な顔で言うのだろう。
「……て、」
 膿むように、心をじくじく苛む罪悪感。その正体は何の事は無い、未だ多分にあるピアノへの未練のせい。自分の気持ちにきちんと、折り合いをつけていなかったせいだ。「もういいの」なんて真っ赤な嘘で、「もう決めたもの」なんて言い訳で騙せるほど、自分のピアノへの思いは浅くなかった。
 馬鹿みたいだ。本当は、吹っ切れてなんていなかったのに。
 周りの誰よりも何よりも一番納得していなかったのは、自分自身だったくせに。
「だ、て」
 声が震える。認めることはこんなにも怖い。好きなものから離れることもつらかったけれど、その感情に蓋をして、眼を背けることは確かに楽なことだったのだ。
「だって怖くなるんです。誰も見てないときにこっそり家のピアノを弾こうとしても、窓ガラスの向こうから誰かに見られてる気がする。そんなわけないって解ってるのに」
 ――いけないよ。約束破りだ。負けたくせに。
 聞こえるのはただの幻聴。幻でしかなく、あの冗談のような賭けを覚えている者だって、きっともういないというのに。
 それでも怖いのだ。ありもしない悪意に竦む心を、どうすることも出来ない。涙が零れた。本当はまたいつだって好きなときにピアノを弾きたい。けれど怖い。閉じられた黒い蓋を、持ち上げることさえまだ出来ない。
「守ってやる」
 静かな一言だった。
 先ほど感じた威圧も脅迫も何もない、ぽつりと落とされた言葉。言うなればそれは宣言だった。風子は顔を上げる。レグナは苦笑しながら、その瞳から新たに零れかけた涙を、指でぐいぐい拭ってやった。
「俺はお前の守護霊でも何でもないが、『今』の『この場』に限ってお前を守ってやる。今この場でピアノを弾くお前を、俺以外の誰も見てない。邪魔する者は俺が消してやろう。信じろ。天主の代弁者たる俺の守護は絶大だぞ」
 尊大さも傲慢な物言いも、すべて事実に裏付けされた自信の表れ。その瞳が、傍にいるのはこれ以上ないほど頼もしい味方なのだと告げる。
 で、と促した。
「弾くのか? 弾かないのか?」

 

 

□□

 

 

 仕舞われたそれは、店内でなく少し離れた個室にあった。天敵の湿気にやられてしまっているかもしれないという懸念は杞憂に終わり、室内は除湿機によってカラリと乾いている。何も言わなくても怠らないでくれた空調の先に、両親の思いを見た気がした。
 重く黒い蓋に手を伸ばす。躊躇ってちらりと背後を窺えば、レグナが偉そうに足を組んだままニヤリと笑い返してくる。その笑みに勇気付けられるように、硬く冷たいそれに触れた。滑るように指先で表面をなぞり、手をかけ持ち上げる。鉛より重く思われたそれは存外軽く、風子は蓋をぶつけてしまわぬよう、慌てて勢いを殺した。ワインレッドの布を取り去れば、無彩色の鍵盤がようやく顔を出す。風子は知らずに息を漏らした。再び後ろを振り向けば、不遜な天使の笑みと頷きが返る。それにぎこちないながらも笑みを返すと、一度だけ大きく深呼吸し、十本の指を今度は鍵盤に滑らせた。試しに一つ押してみると、懐かしい感触、音に思わず笑みが零れる。
 そこからはもうただ夢中で、観客たる彼のリクエストを訊くことなど、既に頭から抜けていた。
 響く拍手の音で我に返る。振り返れば、偉そうにふんぞり返ったままではあるものの、レグナが惜しみなく手を打っていた。風子ははにかむように笑った。
「ありがとうございます」
「俺は気に入ったぞ。お前の『くらすめいと』とやらは聴く耳がないな」
「無理ですよ。宮下さんはたくさん練習だってしてるし、多数決の前の演奏だってすっごく綺麗だったんですから」
 そう。初めから、競う必要すらなかったのだ。だから負けたとしても、それは風子がピアノから離れなければならない理由になり得ない。
「……私、またピアノ弾いてもいいんでしょうか」
「イイもナニも、お前が弾きたかったら弾けばいい」
 ぽつりと零した独白めいたそれに、突き放すように返された言葉は不思議と優しく。
「お前が弾かなくたって誰がどうにかなるわけでもない。だが、お前が弾けば喜ぶ奴もいる。それだけのことだ」
 けれど「それだけのこと」は、怖がってばかりいた自分をこんなにも嬉しくさせてくれるのだ。
(あなたも、喜んでくれる人の一人になってくれますか?)
 咄嗟に訊きたいと思ったそれは、けれどきっと訊いてはいけないことなのだろう。だから風子は、飲み込んだ言葉の代わりに笑って頷いた。
「はい」
 ああ好きだなと、想ってはいけないことを思う。残された時間の短さに、胸が新たに痛んだ。

 

 

オーバードの祝福


想いのエレジー