「……風子?」
 ふいに後ろから声をかけられ、風子はびくりと肩を震わせた。脳裡を巡っていた三週間の記憶が途切れ、我に返る。
「さやかちゃん」
 いつの間にか背後に立っていたさやかは、ジュース入りのコップを片手に気遣わしげに風子を見詰めている。パーティ真っ最中の賑やかな声は、こころなしか遠くから聞こえるようだった。
「どうかした? そんなトコいると寒いよ」
「うん……」
「何か見えるの?」
「ううん、何も」
 言いながら一向に動く気配のない風子に焦れたのか、さやかが近寄ってきた。
「どうしたの、ホントに。風子、今日は何か変だよ?」
「うん……そうだよね、ごめんね」
「や、別にあたしはいいんだけどさ」
 何処となく泣きそうな風子に、さやかは戸惑う。無理矢理にでも問い詰めるべきかと思案した。
 ふと、風子が顔を上げる。
「さやかちゃん、今何時だか判る?」
「へ? あ、あー……十時五十分よ」
 風子の顔色が変わった。
「いけない! さやかちゃん、私もう行かなきゃ」
「は? ちょ、行くって何処に? もう外真っ暗じゃない!」
 今にも飛び出して行きかねない風子を、さやかは慌てて留まらせる。クリスマスイヴだろうが何だろうが外は暗く、ここぞとばかりに羽目を外した連中がうろついていないとも限らないのだ。先日何の罪もない少女が襲われたというニュースを思い出し、さやかはぞっと背筋を凍らせた。
「大丈夫だよ、すぐ近くだから」
「買い物? だったらあたしも……」
「さやかちゃん」
 珍しく強い口調で、風子はさやかの言葉を遮った。唇を噛み締めて真っ直ぐに見詰める。今はもう理由を話している暇はないのだ。
「……、……、………………はあ」
 問い質すための呼びかけが喉で萎える。さやかは自らの負けを悟ってため息を吐いた。そうだった。普段はおっとり屋のくせに、一度言い出したらきかない意地っ張りの面も、彼女は確かに持っていたのだ。
「……何時に戻ってこれるの?」
 その言葉に、ハッといつもの調子に戻った風子は自信なさそうに言う。
「えーと、十二時くらいには、なんとか」
「近くって言ってたわよね、公園?」
「うん」
「誰かと会うの? 男?」
「あっ……、う、うん」
 ぱっと風子の顔が赤くなった。突っ込んで訊きたい気持ちを抑え、さやかは別のことを尋ねる。
「帰りはそいつに送ってもらうってことは……」
「無理だと思う」
 妙にキッパリしたその言い方に引っ掛かりを覚えたが、今はため息と共に流すことにした。
「じゃあ、ケータイ持ってって。十二時半過ぎても帰ってこなかったら、迎えに行くから」
 いいわねと念を押す。風子がしっかり頷いたのを確認し、マフラーを押し付ける。両親にはもう寝るからとだけ伝え、二人はそろそろと裏口へ向かった。
「ありがとう、さやかちゃん」
 何故だか泣きそうに顔を歪めながら微笑む風子を、さやかは気を付けてとだけ伝えて見送った。

 

 

□□

 

 

 外は暗かったが、イルミネーションや、等間隔に立つ街灯のおかげで通りは思いの外明るかった。はあはあと吐き出される息は白く、頬や耳をなぶる風は冷たい。それでも目的地に目的人物を見付け、頬が緩んだ。
「レグナさんっ……」
 呼ぶと、ジャングルジムの頂上に腰掛けていたレグナはやはり軽やかに着地してみせた。そして、息を切らせて近付く風子へ意地悪そうな笑みを浮かべながら、からかうように言うのだ。
「遅いぞ」
「ごっ、ごめんなさ……」
「まったくだ。毎度毎度俺を待たせやがって」
 ふんぞり返ったレグナは、ふんと不遜に笑う。風子もつられたように微笑んだ。
「…………」
 ふいに訪れた沈黙。一瞬戸惑った風子は、彼がこちらから何か言い出すのを待っているのだとようやく気付く。風子はごくりと唾を飲んだ。
「あのっ……、お願いがあるんですけど」
「何だ?」
 レグナの眉が僅かに上がる。
「えと、その、羽を触らせてもらってもいいですか……?」
 余程意外な申し出だったのか、レグナはきょとんと目を瞬いた。風子は不安にかられる。
「あっ、あのっ、駄目なら無理にとはっ……!」
「いや……、いい。そうか、お前らにとっては珍しいものなんだったな」
 今はもうすっかり馴染んだ空気の振動のあと、夜空の下にあってさえ目に眩しい白が視界に広がった。
「ホラ、どうした。来いよ」
「あ……、はい」
 風子は恐る恐る手を伸ばす。一点の穢れもない雪のような真白の翼に両手を埋めさせた。思ったよりもずっと柔らかく滑らかなそれに、思わず笑みが零れる。どんな上等なシルクだろうと毛皮だろうと、この手触りには敵うまい。
 なんだか嬉しくなって、手をそのまま左右へ広げて今度は顔を摺り寄せた。目を閉じて、このまま包まれて眠ってしまえればどんなに幸せだろうかと思う。
「あったかいですね」
「そうか? 俺たちに血は通ってない筈だけどな」
 何でもないように言われ、動揺しかけたが、その通りに流すことにした。言い聞かせるように呟く。
「……あったかいですよ」
 レグナがかすかに笑った気配がした。
「三週間、俺の暇つぶしの付き合い、ご苦労だったな」
 不意に告げられた言葉に顔を上げた風子は、口を開きかけたまま固まる。言おうとしていた言葉を失くすほど、一瞬の呼吸さえ忘れてしまうほどに、レグナの眼差しは真摯だった。
「及第点をくれてやろう。まあ悪くなかったぜ」
 見たこともないような優しい笑顔で告げられるそれは、美しく、いっそ泣きたくなるほど残酷で。
「人間は馬鹿でどーしようもない奴らだと思ってたけど」
 胸が苦しくなった。それ以上は聞きたくないとさえ思う。
「お前といるのは、悪くなかった」
 ――――それは、愛の言葉とどう違うのだろう。
 風子は息を詰まらせた。何か言わなければと思うのだが、口も頭もバラバラに空回りするだけで何も出てこない。喉が痞え、口唇は震えながら意味のない開閉を繰り返し、胸は嵐のように荒れ狂っている。
「レ、レグナさん――わ、たし――」
 咄嗟に「す」の音が出そうになって、風子は慌てて唇を引き結んだ。それを見透かすようにレグナは軽く笑う。
「ここには俺とお前しかいない。誰も聞いてないさ。言いたいこと言って、さっさと楽になっちまえ」
 惑うように瞳を揺らす風子の、その固く引き結ばれた唇の先を促した。
「言っただろ、好きなものを我慢するなって」
 本来なら許されない筈の言葉を、募らせるべきではない想いを、彼はこんなにも簡単に許す。風子の唇が戦慄いた。
「――レグナさん、私、あなたが――」
 声も心も足さえも震える。それでも崩れ落ちてしまわないのは、彼が支えてくれているからだとようやく気付いた。
「あなたが、好きです……」
 それはみっともなく掠れた声の無様な告白だったけれど、あれほど荒れ狂っていた風子の心はようやく落ち着く。胸を塞いでいた痞えが取れたように、大きく呼吸した。
 レグナは黙っている。彼が許したのは風子が想いを吐露することだけであったから、その姿勢はまったく正しかった。
 闇の中でもその存在は変わらず輝かしく、出会った瞬間と寸分違わなく美しい。けれど風子が焦がれてやまないのはその人外的な美しさではなく、たとえば意地悪くからかいながら時折見せる優しい笑みだとか、気紛れのように伸ばされる力強い腕だとか、弱い心を叱咤し励ました優しい心根だとか。
 彼が好きだ。どうしようもなく好きになってしまっている。
 静かなその場に、時計の音がいやに大きく響いた。風子はびくりと肩を大きく振るわせる。
「……そろそろ行く」
「っ!」
 レグナの足が地面から離れ、ふわりと浮く。風子は咄嗟に手を伸ばして、上着の裾を掴んだ。レグナは僅かに目を見張ったが、振り切ったりはせず、少し苦笑して素直に留まる。それはまるで、風子の気が静まるのを待っているかのようだった。
 出逢った瞬間から、この別れは約束されていた。こんなに離れ難く思うのに、そこへ連れて行ってほしいとはどうしても言えなかった。何もかもを捨てて心のままに彼を追うには、この場所は慕わしくありすぎる。両親も友達も、自分は顧みずにはいられない。だからといって、行かないでほしいと縋ることだけはするまいと、今度こそ固く心に誓う。これだけの我が儘を許されて、それ以上の何かを望むことなどあってはならなかった。
「ごっ、ごめんなさい! でももう少し待っててください。あと少しで、ちゃんとお別れしますからっ……!」
 涙声になってしまうのはどうしようもない。そんな風子の心情を読んだように、レグナは笑う。
「それでいいんだ。お前の今いる場所はここ以外にない。俺たちのところに上げるには、お前はオトナの色気ってものが足りなさ過ぎるんだよ」
 そっと伸びたレグナの手が、風子の頬を優しく包んだ。いとおしむように、ぬくもりを確かめるように、指が彼女の長い睫毛をなぞるように滑る。風子は促されるまま目を閉じた。
「生きろ」
 それはレグナの望み。酷い言葉だと知っていた。自らとは明らかに違うこの生き物は、あたたかくて柔らかかった。気付けばこんなにもいとおしい。
「死んだらただの肉塊だ。生き物は、こと人間は、生きてる方がずっとマシに見えるぞ」
 だから。
「生きろよ。見ててやるから」
 風子はそっと瞼を持ち上げ、ぎこちないながらも微笑む。
「私、レグナさんのこと絶対忘れません。レグナさんが私を忘れても、私は忘れません。お墓にまで持って行きます」
 これから先誰を好きになっても、この一瞬だけは永遠だ。
 ピンッと額を弾かれて、風子は思わず声を上げる。
「たっ」
「誰が忘れるもんか。俺を見縊るなよ」
 風子の額を弾いた指を突きつけ、レグナは高らかに宣言する。
「俺はあいつと同じ轍なんか踏まない。ババアになって死んだお前は必ず、俺が向こうに連れて行ってやる」
 その不遜な物言いに笑みが漏れた。嬉しくて可笑しくて、声を上げて笑ってしまう。
「待ってます。ずっと」
「ああ、待ってろ」
 また逢える。再会の約束は交わされた。果たされるのは風子が死ぬ時で、それはきっと幸福な未来だろうと夢想する。
 風子の手がレグナの服の裾から離れた。それは別れの合図。
「――さよなら、風子」
 名前を呼ばれたのだと風子が理解するよりも早く、二人の距離はあっという間に縮められる。反射的に目を瞑った風子の唇に、ふっと優しい感触が触れた。すぐ傍で羽音が聞こえたかと思った瞬間に、それは遠ざかっていく。
「レっ……!」
 風子が慌てて目を開けた時には既に遅く、レグナの姿など何処にも無かった。まるで最初から何も無かったかのように、公園は新と静まり返っている。風子は呆けたように、未だ仄かに感触の残る唇に手を添えた。それまで抑えていた、抑えられていたものが急に爆発したような錯覚に陥る。
「っ、レグナさんっ……!」
 ぽたぽたと、想いよりも先に涙が溢れて、それは堰を切ったように流れて止まらない。
 押し殺した小さな泣き声は、静かな通りにひどく響いた。

 

 

コーラルの響く夜に