「いってきまーす」
「ご馳走様でしたー!」
 備え付けの鈴を鳴らし、二人の少女が喫茶店『memory』を飛び出していく。
「う〜、さぶさぶ。やだなあ、雪でも降りそう」
 お世辞にもいい天気とは言えない空を見上げ、さやかは顰めた顔をマフラーに埋めた。
「さやかちゃん、雪嫌い?」
「雪降って喜ぶのは、ロマンチストと脳みそ沸いてるバカップルとお子様くらいなもんよ」
 無意味に力強く言い切った。風子は笑うしかない。私は嫌いじゃないんだけど、とは言わないでおく。
 あの後、風子は気の済むまで泣き続け、一人で家に戻った。パーティーは既に終わっていたので、裏口からそっと部屋に戻るのはそう難しいことではなかったが、部屋で寝ずに待っていたさやかは、目を赤くした風子を抱き締めて迎え入れてくれたので、風子は再び緩んだ涙腺と戦わなければならなくなった。泣いて泣いて泣き続け、ようやく話せるようになったときには、もう明け方だった。さやかには、好きなひとが遠くへ行ってしまったのだとだけ告げている。この三週間の間に起きたことは、やっぱりまだ誰にも話せない。多分一生誰にも話さないままだろうという確信に近い予感はあった。
 それよりもまず別に、風子には告げるべきことがあった。これまでの自分より一歩踏み出すために必要なこと。
「……さ、さやかちゃん。あのね」
「ん?」
「えと、…………あの、ね」
 心は決まっているというのに、実際に言葉にするのは思いの外勇気が要った。風子は口ごもって、自分を鼓舞するように一度大きく深呼吸をする。誰かに何かを祈るような気持ちで口を開く。
「私、またピアノ弾くことにするの」
 さやかの目が丸くなった。呆けたようにきょとんとし、まじまじと風子を見詰めたあと、次いで頬を上気させ、勢い込んで身を乗り出す。
「え?  あ、……ちょ、それホント!?」
「うん。やっぱり私、ピアノ好きだもん。ちゃんと宮下さんにも言ってくるよ」
「気にすることないってあんなやつ!」
 さやかの中で、風子がピアノをやめた元凶は彼女になっているらしい。別に真美に断る必要はないのだが、これも風子なりのけじめだから。
「ううん、ちゃんと言わなきゃ。心配してくれたみたいだし」
「そっか。……うん、賛成。あたし、大賛成っ!」
「ありがとう……」
 まるで自分のことのように喜んでくれるさやかこそ、風子は嬉しい。ふとレグナの言葉が胸に蘇った。
『お前が弾かなくたって誰がどうにかなるわけでもない。だが、お前が弾けば喜ぶ奴もいる。それだけのことだ』
 本当にそうですね、レグナさん。
 ふいに視界の端を白がかすめ、風子は慌てて顔を上げた。あ、と声が漏れる。
「……雪だあ」
「ホントに降ってきた。初雪だね」
 二人は暫し立ち止まって空を見上げた。
 ひらひらと舞い落ちる白い雪は、まるで彼の真白な羽根を思い起こさせる。彼からのご褒美だろうか? ――そうだという確証はなく、確かめる術もない。違うかもしれないけれど、そういうことにしておこう。
 冬はこれからますます牙を向き、春はまだ遠いだろう。胸を通り過ぎていく寒風は染みるけど、背を押してくれる追い風だってきっと吹く。この先どれだけ時間が経っても、あの夜だけは忘れない。夜の暗さ。風の冷たさ。月の翳り。吐息の白さ。触れ合ったぬくもり。彼がくれた言葉たちを忘れない。彼への想いを胸に留め、優しさや温かさ、その痛みさえ受け止めて生きていこう。
 いつかの遠い未来で、彼との再会を果たすその日まで。
(見ててくださいね、きっと)
 愛しさより切なさが勝った想い。今はまだ、笑顔のままでその姿を思い出すのは難しいけれど。
(レグナさん)
 歩いていけると、思った。

 

 

ファンファーレよ高らかに